谷野
今日、カフェに男がやってきた。
その男は、入店するなり一目散に注文レジに向かい、メニューを見ていた。
その時、僕は他のお客さんのコーヒーを淹れていた。
男は、コーヒーを淹れている僕に向かって
「店長、どれがお勧めですか?」
と聞いてきた。
「店長」と呼ばれたのは初めてだった。
店長で間違いはないのだが、店長と呼ばれたことがなかったので、店長という自覚がなかった。
「ご主人」とか「マスター」、「店主さん」と呼ばれたことは何度かある。
店長は、記憶にない。
というか夫婦でやってるカフェだから、店長なのかどうかも怪しい。
でもまぁ、その男がこちらを見ながら店長と言っているので、僕が店長なんだろう。
レジで奥さんは笑いを堪えるのに必死そうだった。
「店長って呼ばれてるww」
といった感じ
お勧めなんですか?とよく聞かれるのだが、そんなもの全部だ。
どれも同じ愛情を持ってお出ししている。
でも、さすがに「全部です」と言うのは冷たいかなと思って、基本的にはどういうものが飲みたいのかを聞くようにしている。
ブラックがいいのか、ミルク割りがいいのか、甘い系がいいのか。
大抵、お勧めを聞いてくる人は、ブラックの中で、どんなコーヒーがお勧めかを聞いてくるのだが、この男は違った。
「甘いのがいいです。」
と言った。
言い切った。
全然良いのだが、これも初めての経験だったので多少面食らった。
しかし平静を装い、僕はその男にメープルラテを勧めた。
僕を完全に信じ切った男は、すぐさまテイクアウトでメープルラテを頼み、僕もなるべく早くメープルラテを提供した。
そして男はお店を出ていった。
男が出ていってからも、「店長」という言葉がお店の中でふわふわと浮いていた。
僕はそのふわふわと浮いた「店長」を見つめながら、業務をこなした。
「店長」の文字が店内から消えかけた頃、先ほどの男がお店に戻ってきた。
飲み終えたメープルラテの容器を持っていたので、ゴミを捨ててほしいということだろうと思い、容器を受け取った。
するとその男は、
「俺のことわかる?実は知り合いなんやけど。」
と言ってきた。
僕は、びっくりして、しばらくその男の顔を見つめた。
わかってくれることを男は期待しているようだった。
ただ、僕が思案していると、男は諦めて帰ろうとした。
その瞬間、僕は男の顔を見て「谷野?」と聞いた。
すると男は嬉しそうに
「よくわかったな!」
と言ってきた。
小中学校の同級生だった。
同じ野球部で、家にも何回も遊びに行ったことがある谷野だった。
しかしよく考えれば、めちゃくちゃ怖い。
僕が谷野だとわからなかった場合、彼は帰ろうとしていた。
正解発表なしで帰るなんてありえるのだろうか。
僕だけが悶々として日々を過ごすことになる。
あのヤバい奴は誰だったんだろうか、と。
正解できて本当によかった。
谷野は、僕に谷野と認知されてから、めちゃくちゃ大声でたくさん喋った。
夕方に鳴り響いた雷と同じくらいの音量だった。
学生時代、そんな奴じゃなかったのに。
谷野は、そんなに喋るやつでも大声でもなかった。
誰のことも名前で呼ばない奴だった。
人が人と喋る時、例えば僕なら「石井くん」とか小さい頃は「輝くん」とか名前を呼ばれて、会話をするのが普通だが、谷野は誰の名前も呼ばなかった。
一度、友達全員で「谷野は名前を呼ばない」ということについて話し合ったこともあった。
なんとか谷野に名前を呼ばせようと、みんなで協力したこともあったが、最後まで谷野は誰の名前も呼ばなかった。
そんな谷野。
そんな谷野の今日の第一声。
店長。
谷野は、25年振りに会っても名前を呼ばなかった。
店長って呼んできたのが、なんかしっくりきた。
まだおもろい。
店長。
「また来るわ」
と谷野は言っていた。
たぶん名前は呼ばれない。
なんとか呼ばせたいもんだ。