コミュニケーションと文脈
皆様今日もお疲れ様です。こむです。
突然ですが、みなさんはコミュニケーションって、どう定義しますか?
自分の考えを相手に伝えるために、話したり、文章を書いたり。
または相手の考えを理解するために、相手の話に耳を傾けたり、相槌を打ったり。
人によって定義の仕方は千差万別だと思います。
私も言語学専攻でコミュニケーションの仕組み、成り立ち等について飽きるほど学びました。(飽きるな)
私が今日ここで綴りたいのは、上記したように話すことや書くこと、そして聞くことにおいて【文脈が果たす役割】、そして【これら以外のコミュニケーション】についてです。
それではさっそく文脈の役割からお話していこうと思います。
1. 文脈が果たす役割:そもそも文脈とは
ネットで「文脈とは?」と検索すると、次のように説明されていました。
ぶん‐みゃく【文脈】 の解説
1 文章の流れの中にある意味内容のつながりぐあい。多くは、文と文の論理的関係、語と語の意味的関連の中にある。文章の筋道。文の脈絡。コンテクスト。「文脈で語の意味も変わる」「文脈をたどる」 2 一般に、物事の筋道。また、物事の背景。「政治改革の文脈でながめると」
(goo辞書より引用2021/01/08: https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%96%87%E8%84%88/)
要は、話している、または文章に書かれている事柄同士を繋ぐ接着剤のようなイメージですかね。会話の場合だと、話している、聞いている言葉そのものよりも”全体的なコミュニケーションの意味”を抽出するために組み立てる必要のあるパズルみたいなもんでしょうか。
例えば、私がここでいきなり”私がスマブラではネス(木製バット帽子小僧)しか使わない話”を藪からスティックに挿入したらどうなるでしょうか。
スマブラを知っている人、知らない人に関わらず、私が書いた文字、文章は理解できますよね。”こいつはスマブラというものにおいてネスという小僧しか使わないらしい”、と。
でも、思いませんか?「で?」って。
なんで今こいつはこのタイミングでこの話をしているのか、その目的は一体何なんだ、意味がわからない、ってなりますよね。これはこの文章に文脈がないから、”与えられた情報だけではコミュニケーション自体の意味の理解に不十分である”と無意識に判断しているからではないでしょうか。
ずっとコミュニケーション、文脈の話をしていたのに、スマブラのような関連性のない話への急に転換されると、聞き手、読み手は困惑させられますよね。
これがまさしく”文脈の欠如”ってやつですね。ちなみにスマブラはゲームです。ネスはそのゲーム内で選択できるキャラクター。(私はスマブラは世界共通認識を得ていると信じています。)
随分と極端な例を挙げてしまいましたが、一般的にいう文脈ってこんなところだと思います。
2. HC-LC:文脈依存度の違い
先に挙げた例も文章での説明でしたが、文脈って言葉表現だけに限ったものではないらしいんです。
アメリカの文化人類学者、Edward T Hallが1976年に書いたBeyond Culture (文化を超えて)という本は、この言葉表現以外のコミュニケーションにおける文脈の役割について、実際の例を用いてとても興味深く解説しています。(これ以前に出版されたThe Silent Languageでも同内容を扱っています。)
彼はこの世界に存在する様々な言語コミュニケーションのかたちを高文脈コミュニケーション文化、低文脈コミュニケーション文化に分けました。
高い低いと表現していますが、どちらに優劣があるというものではありません。
低文脈コミュニケーション文化(Low-Context Communication:以下LC)が伝えたい内容を明確に言葉にして表現することを好む、即ち伝えたいことをストレートに言葉にする、または聞いた内容を文字通りに理解することを好むのに対し、
高文脈コミュニケーション文化(High-Context Communication:以下HC)では伝えたい内容ははっきりと言葉にはされず、文脈を手掛かりとして暗に伝えられるケースが多いです。
例えば、部屋の窓が開いている状態で、「寒いから窓閉めて。」と言うのと、「ちょっとなんか寒くない?」というのでは意味の明瞭度に差がありますよね。
前者は自分が寒いと感じていることに加え、それに付随する要求までもはっきりと言葉で伝えています。後者は自分が寒いと感じていることさえはっきりと断言していない状態で、同意を求めるように言っています。
寒いという共通認識を作り、それを解決する方法をほのめかしているわけですね。
いや寒いと感じてないとそもそもそんなこと言わないでしょ、わかるやんそんなん。と思う方、HC 文化に精通されてますね。 ( ̄ー ̄)ニヤリ
文脈構築には、話し手と聞き手にある程度の共通知識があることが前提として求められることが多いです。
共通の文化とか、住んでいる地域とか。
ジョークなんかには結構この共通知識の程度は顕著に出るもので、聞き手が話し手のパンチラインを理解して笑いが起こるかどうかは、聞き手が構築するストーリーに関してどれだけ知識があるかが重要だったり。
漫才なんかでも、例えツッコミとか良い例ですよね。例えてるものに親近感が湧かなければ想像するのが難しく、笑いが起こりにくくなるでしょう。
もちろん、どの文化におけるコミュニケーションも、LC、HCのどちら一方であるというものではありません。この二つが介在する中で、どちらがより好まれているか、という話です。
皆様のお察しの通り、前述した文化人類学者、Hall(1976)は日本人のコミュニケーションスタイルはHCに属すると分析しました。
日本人にはとっても馴染みのあるフレーズである、「言わなくてもわかるでしょ。」というのはHCを代表しているかのような表現手法ですね。
この例にも代表されるように、HCにおけてコミュニケーションを成立させるには、理解する側が文脈に敏感になり、相手の意図を能動的に探るという協力が必要不可欠なのです。
また、声のトーンや話す速度、表情やコミュニケーション前後に発生した事由、更には沈黙さえも、文脈を構築する力を持つといいます。
明るい声のトーンで「大丈夫だよ!気にしないで!」と笑顔で言うのと、低い声且つ無表情で「大丈夫だよ、気にしないで。」というのとでは相手に与える印象や意味合いが全く変わってきますよね。
というか後者のパターンは日本人目線ではめちゃくちゃ怖いと思います。ぜったい大丈夫じゃない。更にこれに先行して少しの沈黙があったらどうでしょう。もうぜんっぜん大丈夫じゃない。
沈黙の持つ力はすごいもので、いくら笑顔で明るく大丈夫!といっても、それが沈黙が前後に続くと大抵の場合「言葉通りに受け取ってくれるなよ」のシグナルになることが多いんじゃないでしょうか。
「大丈夫だよ!気にしないで!」
「、、、大丈夫だよ!気にしないで、、、。」
いや、気にするわ。ってな感じに思いますよね、後者だと。
というように、私たち日本人のコミュニケーションスタイルは、言葉を介す、介さないに関わらず、文脈への依存度が非常に高いことがわかります。
この他にも誰による発言であるのか、発言の対象との関係性なんかも文脈に含まれる要素の一つです。
3.HC-LC視点でみる異文化コミュニケーション
よく目にしますよね、”NOと言えない日本人”みたいな記事とかコラムみたいなやつ。
私もイギリス留学に向けて異文化摩擦対策のためにリサーチしていた頃、そんなような内容の記事を読み、「いやいやいや、言っちゃうよ、あたしゃ。」てなくらいに思ってました。
日本では、基本的に直接的な表現は好まれないという風潮があるのは確かだとは思いますが、個人レベルでの違いもあるし、私は本当に結構はっきりNOはNOと伝える方なので(自分がそうしてほしいから)、他人事のようにしか思ってなかったんですよね。
んが、いざイギリスに行って色んな国、文化の学生や教授と交流をすると、「なぁあんでこんなに伝わらないの!?」とストレスを感じることもしばしば。
結局自分が日本で育ってきて直接的な表現をどれだけ無意識に避けてきたのかを身をもって知ることとなりました。
いやそれ言語の壁やん、と思われる方、それがそーでもないんだな。
私たち日本人の感覚で相手に自分の発言に対する理解を求めることは本当に異文化コミュニケーションにおいては得策とは言えません。
この日本人の感覚というのは、文脈をどれだけ考慮するか、という点について言及していますが、そもそもこちらが構築した文脈が相手にも認識されているかが問題だと思います。
言葉のキャッチボールとかってよく言われますが、私がストレスを感じた時にやっていたのは一方的な文脈シグナル連続投球。
私のように、こんな表情で、こんな声色で、こんなタイミングで、更にこんな言いまわしをすれば、さすがにわかってくれるでしょ、という文脈シグナルの連投を続ける結果、メンタルという肩を痛め登板不能に陥ることも、海外で暮らしていく上で少なくはないでしょう。
だからって、この文脈依存度の高いコミュニケーションスタイルが悪いのかといえば、そんなことは絶対ありません。
相手との調和を重んじ、且つ謙虚さを保とうとする姿勢が垣間見える日本人の話し方は、私は好きですし、尊厳を得るに値する表現手法の一つであると認識しています。
文脈を読み取る能力がどれだけ相手との共通知識を必要とするのかということを押さえておけば、相手の理解力に過度に依存した曖昧な表現は避けられると思います。
まあ、大事なのはバランス。言いたいことだけ言ってればいいってわけじゃないし、自分が伝えたいこと言うのにを全部相手任せの理解に頼った表現ばかりするべきでもない。
相手の話をきいて表面的に理解することだけで意思疎通が常にできるわけじゃないし、相手の意図を勘繰りすぎるのも精神的によくない。
結論:コミュニケーションって奥深い。だから面白い。
その文化にはその文化を作ってきた人たちのコミュニケーションの形がありますよね。というか日本国内でだってコミュニケーションの形は様々。
一つの手法に縛られて、”伝わらない”、”言ってもわかってくれない”で終わってしまうのではなくて、相手と一緒に視点でコミュニケーションをとろうとする努力、つまりは相手を知る努力がやっぱり肝なのかなって、私は思います。
今回は自分の専攻した分野での話だったので、ついつい長くなってしまい、且つ拙い文章でまとまりに欠けていてすみません。
それでも最後までお読み頂いた方、大変感謝申し上げます!
お読み頂き、ありがとうございました!