#215 決まりのない日々
おはようございます。介護や生活のもろもろを言葉にして書いています。フミオです。昨日は、4月からの動きの1つであり、10年目になる学校へ講師会議へ出席してきました。
その際、「そんなことには気づけたはずなのに!」と自らの甘さに、自戒を込めて綴ります。
■どこかに、あって当たり前の甘さ
「あると思うな親とカネ」という日本のことわざりまよね。親はいつまでも生きているわけでなく、いずれは亡くなります。お金も使えば、貯蓄していてもいつかは尽きます。自立しまししょう。というのが意味と言ったことでしょうか?
当たり前ですよね。講師会議にて、学校側から「介護や福祉に対する学科の時代の要請から、必要性の有無」について、少し触れられるくだりがありました。
私たちが従事している介護福祉士・社会福祉士等の専門職の必要性は無くならないかもしれない(現時点では、まだ)。しかし、養成の過程では、資格取得やそのなり手は、減少していること、無くなることもありますよね。
■社会の中にある温度差
厚生労働省は、2025年度に必要な介護職員は約243万人。2019年度の介護職員数が約211万人。2025年には約32万人に。2040年には、69万人不足と言っています。
介護福祉士の養成校数も、令和4年度には314校(前年度比13校減)、平成26年度406校と比べても2割超減少のようです。
大介護時代が確実にくることが分かっていても、備えない空気が社会にあること、老後の資金で介護を賄うとの思考からでしょうか?お金を備えても人の備えは考えられない。誰かがする!?
この温度差って、どこからくるのしょうか?
■私の中にもある甘さと温度差?
まず、頭と口先では、前職場でも、現時点でも、介護の話題に触れられた際には、介護難民のおそれは話をします。既に、外国人特定技能実習制度(実習先の国に技能取得に貢献目的)が廃止され、育成就労制度(日本国内の人材確保目的)へ移行とか、介護現場の人手不足でベッドが空いていても受入れできない事態の発生など話します。
しかし、講師会議で「介護や福祉に対する学科の時代の要請から、必要性の有無」の話が出て、「そうなんだ?!」と驚く感情に触れたことに、自分に驚き、心底からの気持ちでなかったんだと確認した自分がいました。
■自分の「はたらく側から受ける側」への時間差
私の個人的な年齢と働いてきた経過から勝手に自分の「決まりのない日々の姿」を決めていたことで、自分を勝手に肯定して、また、現実逃避をどこか許している自分がいるんですね。
また、自分の気持ちでは、職場のせいにして自分で決めて今の現状にいることを正当化している、「甘さ」が大きくあることに気づき、さらに、自分の痛いところを気づかされました。
決まりのない日々に、甘え、いいわけを積み上げていたことを・・・。
今の自分のような状況になっても、生活ができるようになるためにチャレンジしたことを再確認!!
■成果がわかる行動に変化するには
プラスの成果、マイナスの成果あると思うけれど、現状は成果がわかる行動にシフトしていない状態です。継続できているだけで「継続の量から質へ」転換していくことを考えていかないと。
始めて、見えなくなって挫折を味わうことは当たり前。見えなくしたのは自分のセルフプランの甘さしかないですね。
期間設定と目標はあったけれど、私が前職場で思っていた「安心して生活ができる」とか「安全な生活がきる」などの、なぞの?ケアプランを自分にたてている状態です。
■今日のnote
自分に甘く、なぞの安心と不安を持ちながらしている活動(noteを続ける状態)に満足している自分を発見しました。個人で始めるリスクってここにもありますね。
誰かの目やプレッシャーから一時的にモラトリアムつくるのもいいでしょけど、この甘い状態は、やっぱり駄目です。
成果がプラスでも、マイナスでもでるカタチまであげていかにと現時点はまだ、山の裾野にいるだけ。先送りになっている状態です。
思いっきり、反省のまだまだ甘い自分を書いたnoteです。おわり
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