#307 見えていても、わからないこと
おはようございます。 フミオです。
作業していると、近所の方だろけれども「お顔を存じ上げない高齢者の方」がやってきて、こんなことを話てくれいました。
高齢者「ここの作業は、誰がやっているんだ?」
私「近所の方と一緒に、伸びた草や木を片付けています。」
高齢者「あそこの、伸びた草と巻き付いている蔓のようになっているのもお願いできないか?」
私「あそこは、持ち主の方の敷地だから・・・私たちではできないです。」
と、以下、昔の作業についてのくだりを話しをお聴きして・・・中断した
作業の再開。
こんな会話の中で気づいたことをnoteします。
■見えている風景は同じ
高齢者の方に、お願いされた伸びた草や蔓のある風景は、私も子どもの頃からよく知っている場所のことです。但し、その頃と若干違うのは、人の手が入っていないこと。
・高齢者の生きて過ごした時間から現在進行形の風景
お歳が80代を想像されるその高齢者の方、私の現在の年齢まで遡ると概ね25年以上前のことであり、そこで暮らし、家族を持って今に至る時間とと50年も前になろうか?
その時間の経過と人の関わりのあった「伸びた草と蔓のある風景」は、私の見て知っている風景と時間の中には、存在しないと思います。
・私が過ごす時間に現れた高齢者の「伸びた草と蔓のある風景」
今、目の前ある同じ風景が伝える問題は一緒、だから、伸びた草や蔓を撤去することも、その土地の方と連絡すれば可能であり問題は解決する。でも、それが高齢者と私の間にある「問題」の解決に当たるのだろうか?
■意識せずに解決されていた暮らしが、問題として現れている
人が居て、その分目の数や手の数、時間のあった「高齢者の見ている」遡った風景では、意識されず生活の中で「誰かの四季の暮らし」としてあったこと。それは、問題であったのでなく、暮らしとしてあったことかもしれない。
そして、今に至るまでの現在進行形の時間の中で、高齢者と私の時間と風景が重なった瞬間が、作業中の会話のくだりになる訳です。
この状況は、高齢者と私のどちらかが知っている問題であれば解決につながるけれど・・・「お互いの知らないことを知らない」になると厄介なことになるかもしれません。
これがこれからの地域であり、日本のどこでも見られる風景
■その解決方法は、文化人類学の手法がいいと思う
文化人類学では、研究者が被調査者と共に生活し、日常生活を間近に観察する(参与観察)や対象者が被調査者へ個別インタビューを行い、経験や意見を聴き取る方法や過去の研究や資料を調査する方法などがある。
これまで、暮らしの中で合理的で効率的に行えていたことが「非」〇〇になってきています。この「非」というズレを解消していくには、生活している方の中から無意識だったことを言葉にして意識して生活に馴染み替えていくことが大事なんだと思もいました。
■今日のnote
金銭的と時間的な価値が優先される傾向の今、暮らしの中にあったことが喪失し問題になっています。自然と暮らしが共存が自然と暮らしが共存できなくなり、人と人との共存もむずかしくなっている。
家庭・家族・仕事・地域といった分け方でなく、もう一つ新しい▢▢が必要になって来ている気がします。
人と人の関係性が強く、その問題の暮らしの中に住む人たちのヒストリーを汲み取り、「あ~、〇〇さん、こんにちは」とあいさつができて、他者へのgiveができる新しい〇〇。
さて、どうやったらできるだろう?