【雑感】君たちは友人の会社の上司と友達になれるか
君たちに仲の良い友人がいたとする。想像してみて欲しい。その友人の会社の上司、という存在を想像することは出来るだろうか。自分の友人が会社でどういう振る舞いをしているのか、いくら友人であっても、そういった領域のことまでを想像出来る人は少ないんじゃないかと思う。となれば、その想像力の外側の世界、そこにいる上司という存在を具体的に想像することもまた、難しいのかもしれない。「どうやら何かそうした存在が友人にもいるらしい」この程度の認識に留まることが殆どである。
回りくどい前置きとなったが、何が言いたいのかというと、私は先日、友人(ちょいまち)の会社の上司と友人になることに成功したという自慢なのである(相手が私を友人だと認めたかどうかについては定かではない)。とは言ったものの、この部分に関しては、私と件の上司(以下「上司it」と表記させていただく)を繋ぎ合わせた友人の功績が大部分を占めているのであり、私はフリーライドしたに過ぎない。
フリーライド、ただ乗り。友人にどの程度フリーライド出来るかという話題は、上司itとの会話の中にも登場した。私はこの時「自分にやりたいことがないからフリーライドする」みたいなことを言ったような気がするが、今振り返ると、これは少し違う。自分のやりたいことも当然ある、当然あった上で、フリーライドに重きを置いている節があるかもしれない。自分のやりたいことを突き詰めていくと大抵それは「人体実験」になる。これをすると私はどうなるんだろうとか、どういう気持ちになるんだろうとか、そういう興味から何かをしてみたくなることが多い。そうすると、より偶然性、ランダム性の高い、自分の内側にはない提案、友人にフリーライドしてみる方が、予期せぬことが発生する期待値が大きいということかもしれない。
この時、ムッシュさんに「友達にどれくらいフリーライド出来るかはその人への信用の証になる」みたいな話をされた気がするが、これはその通りで、私は私の友人を、全員もれなく全面的に信頼しているところがある。これは、なんというか、私の才能なんだけれども、私の目の前に現れる人というのは全員「善い人」なのだ。私の周りに何か不思議な磁場が働いていて、その磁場がそういった善い人しか集めないようになっているとしか思えない、それくらい私と関わってくれる人間は、善い人しかいない。これは幼少期からそうだった。極めて幸福なことなんだと思う。この点において、私は強く確信しているので、「ひょんなことから友人の上司と会う」ことになってもそこになんの抵抗もなく、すんなりフリーライドしていけるんじゃないかと思う。
「私が友人を全面的に信頼していること」と「私が友人にフリーライドしまくれること」に相関関係があったということは、ムッシュさんに言われるまで気付いてなかったかもしれない。なんか、自分の中では当たり前にそうだったから。「友人」という存在の捉え方も千差万別である。それぞれがそれぞれで基準を設けて、その中でそれぞれが「友達をやっている」んだと思うと、今私と友達でいてくれている人たちがいることって奇跡的なことっスよね~と、しみじみ思う。ありがとダゼー。
終(おわ)
2024/01/20