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(10)解体後の旧ユーゴ地域映画

[2013/9/30]

 恒例の旧ユーゴスラヴィア地域の現代映画を紹介する上映会(主催・ユーゴ映画上映委員会)を、今年(2013年)も7月10日、12日、17日、19日に東京で行った。今回はユーゴ解体後のバルカン地域で、最近どのような映画が作られているかを紹介するのが目的であったので、上映会の名前も従来の「シネマ・ユーゴ」から「シネマ・ポスト=ユーゴ」になった。今年は会場を筑波大学東京キャンパスに替え、上映作品数を1本増やして4本に、また映画上映前の作品紹介を若手の研究者に託した。
 さらに、我々が個人的に知り合いである上映3作品の監督と東京の会場を、インターネットで会話のできるスカイプで結ぶことに挑戦した。時間を事前に打ち合わせして監督が自分のコンピューターの前に座り、スクリーンに映し出される監督と上映会場の観客の対話をスカイプで行ったことは、新鮮で好評だった。大学の博士論文審査でも、忙しくて出張の多い数名の審査教授を一同に集めるのが至難の業で、私もそれをまとめるのに何ヶ月も費やしたが、最近は会場に来ることができない教授がスカイプで参加して行われるようになり、審査日程を組むことが楽になった。国際会議もスカイプが活用されるようになったという日本だが、スカイプでの監督との対話は日本の映画界ではまだ珍しいようだ。アメリカの映画祭や上映会では、スカイプで監督の記者会見や質疑応答が当たり前に実施されている。インターネット環境が整備されていることが必要条件だが、例えば先方が戸外の庭に座ってコンピューターに向かっていると接続が悪くなることがあるなど、さまざまな要因が通信に影響する。今回もセルビアの監督との会話はとてもスムーズにいったものの、マケドニアとスロヴェニアの監督との会話は接続が悪くてよく聞こえない結果となった。それでも、その時間にバルカンにいる監督と東京の観客が会話できるということに、会場全体から興奮が感じられて、主催者として達成感は大きかった。

『シネマ・コミュニスト』

『シネマ・コミュニスト(Cinema Komunisto)』(2010年、公式サイトはこちら)は、社会主義ユーゴ時代の映画産業の発展とそのイデオロギーやチトー大統領との関係を追うユニークなドキュメンタリーである。私がニューヨークのトライベッカ映画祭でこの作品を見て、ミラ・トゥライリッチ監督にインタビューしたことは、このコラム「(6)ユーゴの黒い波」でも紹介した。幸い、旧ソ連と旧ユーゴの政治プロパガンダと芸術の関係についての論文で、2013年春に東京大学で博士号を取得した亀田真澄氏(日本学術振興会特別研究員)が同監督をよく知っているので、作品解説もお願いした。

 トゥライリッチ監督は1979年ベオグラード生まれ。ベオグラード大学演劇学科を経て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで政治・国際関係論を専攻したので英語も堪能だ。政治活動家を目指すものの、「芸術は政治よりも権力を転覆させる力がある」という信念のもと、ドキュメンタリー映画監督の道をめざしたと言う。それを実践しているのがこの作品だ。
 映画は、チトー大統領の公邸で32年間にわたり専属映写技師を務めたレカ・コンスタンティノヴィチや、映画製作者、監督、映画関係者などへのインタビューや当時の映像から、戦後ユーゴ映画の特質を考察する。戦後ユーゴでは、圧倒的劣勢ながらナチスと戦い勝利を収めたチトー率いるパルチザンを英雄として描く映画が数多く作られたが、日本でもユル・ブリンナーやオーソン・ウエルズが出演する『ネレトバの戦い』(69)やリチャード・バートンがチトーを演ずる『風雪の太陽』(73)が公開された。いすれも国際的スターを集めて大予算で製作され、大規模な戦闘シーンが展開される。
 ハリウッドのきらびやかなスターのパワーをチトーが利用しただけではない。東のハリウッドをめざしたユーゴは、西側との共同製作で多くの外貨を獲得し、さらにユーゴを訪れる西側のスターや映画人から世界の映画界で何が起こっているかの情報を得て、自らも優れた映画を作ったのである。映画好きで、見た映画は全部覚えていたチトーの驚くべき記憶力について、この映写技師が語っているが、一日の激務をこなした後にほぼ連日映画を見ていたチトーの体力と気力に、政治家はこれだけスタミナがなくてはつとまらないだろうとあらためて納得した。
 映画上映後のスカイプによる質疑応答で、この映画を作った動機について監督は、かつて栄華を誇ったベオグラード郊外のアヴァラ撮影所がうち捨てられているのを見て、記録に残すことを考えたという。

アヴァラ撮影所は、私が1976年10月から1977年5月までのベオグラード大学演劇映画学科大学院留学中に、代表的なユーゴ映画20数本を試写室で個人的に見せていただいた場所である。雪の中、バスを降りてから坂を上って行った懐かしい場所を画面で見て、感無量であった。半世紀前の大スペクタル映画で使われた大量の鎧や衣装はしっかり作られているので、いまだに色あせずほころびもせず、この撮影所で大切に保存されているのが、『シネマ・コミュニスト』に映し出されていた。ユーゴ映画製作の技術パートがいかに優れていたかの証明となっている。しかし『シネマ・コミュニスト』撮影当時には電気も切られ、誰も管理しないまま荒れ果ててしまうだろう、という関係者の証言は哀しかった。かつてチトー大統領が映画を見ていた大統領公邸も、NATOの爆撃で半ば崩壊している。
 観客の中から駐日スロヴェニア大使のヘレナ・ドウルノフシェク=ゾルコ氏が、「自分の育ったユーゴ時代を懐かしく思い出しながら見たが、ユーゴ崩壊後、ユーゴ時代をノルタルジーを持って思い出している人々が多いのではないか」というコメントに、ユーゴ時代を知るほかの観客たちもうなずいていた。私がインタビューした時も、監督は12歳までユーゴ時代を過ごしているが、自分はセルビア人というよりは「ユーゴ人」という意識だと述べていた。米ソ対立の中、独自の社会主義をめざして労働者自主管理経済制度を取り入れ、外交的にも第三世界と連帯する非同盟中立路線を取ったユーゴは、独得な実験を試みた国であったと監督は言う。『シネマ・コミュニスト』を見ながら、私もそれに同感した。

『ベンチのふたり』

 戦犯裁判の証人の身代わりとなったクロアチア人とセルビア人が繰り広げるブラック・コメディである『ベンチのふたり(Dva igraca s klupe)』(2005年、作品解説はこちら)も、私は数年前にトライベッカ映画祭で見ている。この映画のことを、本上映会の企画委員の一人でバルカンの歴史学者の山崎信一氏に話したら、彼がDVDを手に入れて友人と日本語字幕をつけてくれた。今回はこれを上映し、映画解説もしていただいた。

 この作品のデヤン・ショラク監督は1954年カルロヴァツ(クロアチア)生まれで、1984年より当作品も含めて8本の長編映画を監督している。1993年に大量の市民を虐殺した首謀者として、ハーグ国際裁判所に戦犯として起訴されたクロアチアの大佐の無罪を主張する運動に巻き込まれた二人の元兵士を主人公にしている。映画の冒頭から、ハーグを馬鹿にするような歌詞のバルカン風の歌が牧歌的なバルカンの田舎の風景に重なり、西欧社会を代表する「ハーグの正義」対バルカンのローカリズムの正義という対立の図式も茶化される。この大佐は戦犯どころか地元では英雄なのだが、このようなことは紛争後のクロアチアでもセルビアでも実際に起こっている。
 黒服を着た正体不明の寡黙な男が、高級車でクロアチアの寒村に乗りつけ、酒場でくすぶっている元兵士アンテを誘拐。とある隠れ家に監禁されるアンテは、セルビアの中都市から臓器販売のために売られてきた元兵士ドウシュカと出会う。かつて敵味方として戦火の中を戦ったこの二人が、なぜ監禁されるのか判らない前半は不条理劇である。火花が散りそうな敵対感を走らせる気の短いアンテにしても、寝取られた妻のほうが心配なドウシュカも、間抜けでどこか足りない。それだからこそ、このような闇組織にうかうかと捕まってしまっているのだ。
 後半はいわば天敵同士のこの二人のクロアチア元兵士とセルビア元兵士が、国際社会に暗躍する組織や、もっともらしく上からの目線で正義を説く人々に翻弄されながらも、協力して自ら持つ庶民のしぶとい底力を発揮し、最後には獲りたいものを獲ってしまう展開が痛快だ。主役の二人も組織の人間も、すべてにユーロ通貨で値段をつける。500ユーロでこの話をまとめるとか、これをするなら700ユーロだという具合である。EU参加前のクロアチアで、ものを言うのはユーロ通貨なのだ。
 上映後の質疑応答で、アメリカ演劇専門の戸谷陽子お茶の水大学教授のコメントが興味深かった。ヒーローでもスーパーマンでもない目立たない人々が、自分のおかれている状況を判らないながらもヒーローとなっていくという物語の構造は、シェイクスピアの『ハムレット』で脇役にすぎない二人の人物に焦点を当てたトム・ストッパードの戯曲『ローゼンクランツとギルゼンスターンは死んだ』(ストッパード自身の監督で1990年に映画化) にも共通するものではないかという指摘だ。バルカン紛争を背景にしながら、この作品は国境や時代を超えた普遍的な物語でもあるのだ。
 さらに、監禁されている二人が見ていたTVの中の歌謡曲は何かという質問があった。派手な衣装・化粧の歌姫が身体をくねらせて歌うこれは、典型的な通俗的歌謡曲という山崎信一氏の説明だったが、このシーンは実は意味深長である。アンテがこの歌につい身体を揺らして声を合わせ、ふと見るとドウシュカも楽しそうに歌っているので、アンテは途端に気分を害してTVを切ってしまうのだ。ここには敵対する人々も共有できる大衆文化の存在が、さりげなく示されている。

『母たち』

 『母たち(Majki)』(2010年、公式サイトはこちら)は、マケドニアを代表する映画監督ミルチョ・マンチェフスキの第4作目の最新作である。

ミルチョは1959年、マケドニアの首都スコピエ生まれ。処女作『ビフォー・ザ・レイン』 (94)がベニス映画祭で最高賞を授賞、アカデミー外国語映画賞にもノミネートされ、一躍世界の注目する映画作家となった。『ビフォー・ザ・レイン』 と二作目の『ダスト』 (01)は日本でも公開されているが、三作目『影』 (07)以降、公開されていない。アメリカの南イリノイ大学を卒業後、ミュージック・ビデオや短編の製作で知られていたミルチョは、ニューヨーク大学映画製作学科大学院の学科長を務めていたが、最近辞めた。写真、TVドラマ、舞台芸術も手がけ、小説も書く多才なアーティストで、ニューヨークとマケドニアのスコピエのほか、最近は世界中あちらこちらからお呼びがかかって旅が多いと聞く。NHKのドラマ・デイレクターで映画監督の高橋陽一郎氏の映画『水のない八月』(97)を、当時私が勤務していたニューヨークのジャパン・ソサエテイーで上映した時、高橋監督がマケドニアの映画祭で会って友人になっていたミルチョを紹介していただき、私も友人となった。
 2011年3月11日の東日本大地震の時にも、ミルチョはメールを送って心配してくれた。私が彼に1963年のスコピエの大地震を覚えているか聞くと、両親が彼をめぐって争っていたことを覚えているそうだ。今年はスコピエ地震50周年で、地震後の都市計画を公募ですることになった丹下健三は、スコピエでよく知られている。
 東京に大使館開設準備中のマケドニア政府代表ボヤン・ペトロフスキ氏に会ったのも、そのご縁である。スコピエ地震50周年記念行事で、大阪から合唱団がスコピエを訪ねたという記事を私は春に新聞で読んで、そこに名前があったボヤンに会って上映会の協力を求めようと思った。たまたま亀田真澄さんがボヤンを知っていたので、紹介してもらった。この上映会では、セルビア、クロアチア、スロヴェニア大使館には既に広報面などでご協力していただいている。マケドニア映画の上映は今年が初めてなので、ボヤンにも広報の協力と、マケドニア文化を紹介する資料を上映当日持参し、挨拶をしてもらうことにした。その結果、上映日にはマケドニアの文化・歴史・料理・観光などの情報が入った観光地図数種が会場に置かれ、ボヤンの挨拶でジプシー・バンドやボクシングでマケドニアと交流する日本の人々が会場に来ていることも紹介された。マケドニアのように日本でなじみの薄い国の映画の上映では、観客にまず文化紹介から入ってもらうのが得策と思った所以である。
 映画紹介は、マケドニアの若手日本映画研究者、アンドリヤナ・ツヴェトコヴィチ氏(欧州映画アカデミーESRA パリ-スコピエ-ニューヨーク 客員准教授)にお願いした。マケドニアで日本映画研究と聞いて驚く人も多いと思うが、私も昨年(2012年)京都の国際日本文化研究センターの共同研究会で発表をした時、客員研究員だったアンドリヤナを紹介されてびっくりした。今年7月から京都大学客員准教授として4ヶ月京都に滞在するというので、『母たち』 の紹介を頼んだのだ。
 『母たち』 は、スコピエで痴漢騒ぎを起こす小学生の少女たち、山の中の村をスコピエから訪れる自主映画撮影隊の3人がインタビューする老婆、地方都市キチェヴォで2005年から2008年にかけて起こった中年の掃除婦ばかり狙う3件の暴行殺人事件についての3つのエピソードから成る。とりあげられているのは世代の違う女性たちで、背景になっているのは、大都市、中都市と過疎地である。そして各エピソードは劇映画である最初の少女たちのエピソード、実際の村の住民を撮影隊が撮るという擬似ドキュメンタリーのような2番目のエピソード、そして当事者のインタビューや報道された記事や映像で構成される殺人事件を描くドキュメンタリー映画としての最後のエピソードと、三種のスタイルを使った凝った構成になっている。
 中でも最後のエピソードは実際に起こり、奇妙な顛末の事件であるだけに、映画を見終わった後に真実とは何かと問わずにいられない。掃除婦暴行殺人事件を追っていたジャーナリストのヴラド・タネスキが犯人として逮捕され、警察に拘留中に部屋の中にあったバケツに首を突っ込んで「水死」しているのが見つかったのである。タネスキは自殺と断定される。タネスキのDNAが被害者の体内に残った犯人のDNAと確かに一致する、と検視官がカメラの前で述べるが、証拠の偽造は簡単にできると言う専門家もいる。仕事の関係で別居していたタネスキの妻は、夫が犯人であるはずがないと断言をし、タネスキと顔見知りであった被害者家族たちは動揺を隠せない。タネスキの死が余りに尋常ではないので、警察にでっちあげられたのだという意見もあり、現にタネスキの死のあと警察署長が汚職で逮捕されるニュースで映画は終わる。まさに「藪の中」なのである。
 最初のエピソードでは、少女たちは痴漢に遭ったという不確かな情報を増長させ、警察署で明らかに違う男をそうだと断定する。これはどうみても少女たちのでっちあげという演出方法で、何気ない嘘があたかも事実のようになっていく仕組みが描かれる。上映後の質疑応答で監督のミルチョは、これは実際に自分の友人の身に起こったことだと言っていた。この犯人に仕立て上げられた若い男性は、二つ目のエピソードで撮影隊の録音技師として登場する。
 この録音技師は、同行する男女がいちゃついているので、居場所がなく一人で木にマイクロフォンを向けて音を拾おうとしたりしている。老婆から婚礼の冠を若い女性が借りる。冬になるとその女性は録音技師と恋人同士になっている。その冠を返しに彼女が村を訪れると、近くに住む老婆とは仲の悪い兄が死んでいる。彼女は老婆を助けてその兄の死体を埋めるが、ここはフィクションであろう。彼の遺留品の中に、赤ん坊の写真があり、クローズアップで一瞬見せられるが、その写真が最後のエピソードの最初の場面に使われる。これは、タネスキがこの赤ちゃんで、山の中の老人の息子ということなのかと思ったが、上映後の質疑応答でこの質問が出た。監督の答えは、そういう目的ではないということで、意図的に観客を混乱に陥れる監督の戦略のようだ。
 真実と虚構の間を行き来するこの映画のテーマは、黒澤明監督の『羅生門』(50)を思わせるという感想が観客から出て、ミルチョも自分は黒澤のファンであると言っていた。私がベオグラードに留学中に、セルビア語の語学学校の先生が、一つの事象についてさまざまな解釈をすることを「ラショーモン的」と言ってセルビア語の語彙になっていると説明したことがあったことを思い出した。(このコラムの編集者村山恒夫さんによれば、文化人類学者オスカー・ルイスは著作の中で、複合的自伝の方法を「羅生門式手法」と名付けているそうで、黒澤監督の「羅生門」は海外でも大きな影響を及ぼしている。)

『お父さん』

 『お父さん(Oca)』(2010年)のヴラド・シュカファル監督は、1969年スロヴェニア生まれ。当作品は処女長編作で、ヴェネツイア映画祭の批評家週間やロッテルダム映画祭で上映された。シュカファル監督はスロヴェニア・シネマテークや、アドリア海沿岸で開催されるイソラ映画祭創設者の一人で、私が2006年にリュブリャナ大学で日本映画の集中講義をしていた時に、受け入れ担当のアンドレイ・ベケシュ教授に紹介していただいて初めて会った。2010年に私が再びリュブリャナ大学で日本映画の集中講義をしている最中に、『お父さん』が名画座で公開されたので、ベケシュ教授と一緒に見に行った。映画はハンガリー国境近くのシュカファル監督の故郷の方言が使われていて、リュブリャナではスロヴェニア語の字幕がついた上映で、私の周囲のリュブリャナの人たちは、字幕がなければ言葉が理解できないと言っていた。

 映画は緑深い森の中の、木漏れ日に光る川の水面に泳ぐミズスマシのイメージで始まる。静寂な中の風景かと思って耳を凝らしていると、虫や蝉の声が次第に聞こえてくる。光と影が揺らぐ中、父と10歳ぐらいの少年の関係がゆっくりと展開する。二人の間に会話はあまりない。多分この二人はあまり時間を過ごしたことがなく、久しぶりに会っているので何となく遠慮がちな関係が見てとれる。「学校はどう?」「普通」という、日本の会話のない親子の間で交わされるのと同じような言葉が交わされる。
 父が息子に川で釣りを教える頃から、この二人の会話がいくらか進み始める。この設定は、仕事の関係で滅多に会わないやもめの父と別れて育った息子が、若者になって久々に父と会い、川で釣りを二人でする小津安二郎監督の『父ありき』(42)のシーンを思わせる。『お父さん』の場合は、父親が離婚して息子が母親に引き取られているため、父と息子があまり会えないことが次第にわかってくる。ストーリーよりその場の雰囲気や登場人物の関係を丁寧に描く小津を私は連想して、映画を見た後ヴラドにそう言うと、彼はちょうどスロヴェニア・シネマテークの小津の『東京物語』(53)の上映に記事を寄せていて、映画製作中に意識はしていなかったが、小津は大好きな映画作家だし、確かに小津に影響されているかもしれないと語っていた。
 途中で少年がトンネルの下に立つ男のところへ行って、あれはロマ(ジプシー)だと父に告げると、お父さんは彼等のことを差別的に言ってはいけないと息子を諭したりする。一瞬挟まれる社会的問題である。そのうち夜になって少年を父はある家まで送り、その家の二階の窓を見上げる。その後画面が暗くなり、「月曜日」という字幕となり、次第の男たちの声が聞こえてくる。ここではがらりとトーンが変わり、父がカフェのテーブルに座る同僚に、離婚に至った経緯や仕事をかけもちして息子に会えない現状を話している。そしてストライキ中の工場の労働者の顔が続々とクローズアップで捕えられ、彼等の言い分を映し出すシーンで終わる。
 映画解説は、リュブリャナ大学の学生で東京外国語大学に留学中のカーチャ・シフコヴィチュさんにお願いした。質疑応答で、最後の工場のストライキのシーンは実際に進行中のことだったのかという質問に、そうだという監督の答えであった。少年が夜に帰る家は多分母親のところのようだが、はっきり説明されず、何か夢のような感じもするので、月曜日の前のシーンはすべて夢だったのかという質問も観客からあり、そういわれてみるとそうともとれるなあと私も思った。月曜日のシーンがあまりにそれまでの調子と違うことに違和感を覚える観客もいた。私は父親と息子を演じた二人に興味があり、監督に質問すると、父親役は自分の近くにいた人、息子役は彼が「この役にはこの子以外にいない」と言って連れてきた少年で、二人とも演技経験がないそうだ。この二人の顔のクローズアップが多いが、どこにでもいそうなこの二人は、各々さりげないながら稀有な表情を見せる。

(当映画シリーズでは、柴宜弘(東京大学名誉教授)、 アンドレイ・ベケシュ、イェリサヴァ・ドボウシェク=セスナ(東京外国語大学講師)、山崎信一(東京大学非常勤講師)の諸氏に2013年も共同企画者としてお世話になった。)

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