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月曜日のマリ/白ニットとカレーうどん

マリはいつも通りに定時で仕事を終えたあと、最寄り駅から徒歩五分のスーパーに立ち寄っていくらか割引されていた豚バラ肉を買えて上機嫌でいた。
ゆでうどんはかごの中。油揚げは家にある、贅沢をして青ネギを入れたいところだがまだ白ネギの在庫が多いので我慢。
あと他に入れる具材はーーと考えたところで、多くしすぎても雑多になりそうな気がして手に取るのを辞めた。
結局、豚バラ肉とゆでうどんを通勤用のバッグに入れておいたエコバッグに納めたところでマリの買い物は終わり、ほんの少しだけ寒さを覚える帰り道を気持ち早めに歩いて帰る。

マリの住む家は低層のマンションで、住民もそんなに対面する機会があるわけでもないがトラブルがあるわけでもなく、いたって平和に暮らすことが出来ている。
仕事を終えてオートロックの鍵を開けて帰る頃にはそこかしこの家から何かしかの湯気の匂いがしていた。
お風呂の石けんの香りと、どこかの味噌汁の香りと、焼き魚の焦げた香りが渾然とする廊下を歩くのは、嫌いじゃなかった。
「(わたしがいなくても他人の生活は回っている)」
なんて安心出来る事実だろう!マリは自分が中心にいなくても地球が規則正しく回っていることに安堵をして、それぞれにささやかに幸せがありますようにと願いながら自室に向かう。

階段を上って二階、通路を渡って一番端にある角部屋が、マリの住む部屋だ。
別に角部屋にこだわっていたわけじゃないが、内見の時に角に沿って大きく開かれて作られていたベランダには心を惹かれていた。
「(夏になったらあそこに椅子を出してビールを飲もう。ついでに枝豆もゆでて)」
その計画は、引っ越してから一年半経過して無精癖もあって果たせずにいる。いつかの夢として取っておくことにして、手洗いとうがいを済ませるとマリは早々に台所に向かった。
理想よりちょっと狭いが一人暮らしにしてみたら十分広めのキッチンはマリにとって城のようなものだった。

料理はマリにとっていつも小さな成功体験を積み重ねてくれる存在だった。PDCA、とビジネス用語で言われるとついしかめ面をしたくなるが、買い物の計画を立てて料理を作り味わいまた次のレシピに生かす、と言われたらなあんだと納得してしまう。
世の中の賢い人はもっとそういう風にわかりやすく、頭の良いことを言ってくれよと思いながら冷蔵庫から油揚げと白ネギを取り出したマリは短冊状に切り始める。
白ネギは薄く斜め切りに、豚バラ肉は短冊形の油揚げと形が合うように同じ幅で縦長に。
カレー粉、小麦粉、片栗粉を各大さじ1杯ずつ容器に入れて、そこに水を加えて溶かす。
フライパンにサラダ油を流して少し温まったところで白ネギと豚バラ肉を入れてほぐし、火が通ってしんなりしたところでだし汁を加える。
といってもマリは日々の料理からそんなに気合いを入れているわけではないので白だしを適当に一回し二回ししたところに丼一杯分の水を入れるという計算で料理をしている。
もっとうどんつゆっぽい味にしたいから、と醤油とみりんと砂糖を鍋に投入して甘辛い味を仕上げたところでもう一口のコンロの湯が沸いてゆでうどんに再び火を通すタイミングがやってくる。
もう一度しっかり、カレー粉と小麦粉と片栗粉と水でとろみをつけた容器をしっかり混ぜ直して鍋に入れ直してちゃんと火に掛ける。
しっかり火に掛けることでとろみが最後まで失われない。
時々底をかきまぜながら、ほどよく火の通ったゆでうどんをしっかり水をきって丼に入れて上からたっぷりのとろみのついたカレーつゆを掛ける。

「(カレーうどん。嗚呼ずっと食べたかった!)」

三月頭のここ数日、春先に近づいたかと思えば寒さに戻る日々が続いていて、特に夜の冷え込みがきついことに辟易していたマリは今週絶対カレーうどんを作るのだという決意をしていた。
食卓に丼を運んで箸も並べたところで、卵も落とせば良かったな、と僅かばかりの後悔をしたところでマリは自分の着ている服を見る。

定期的に、服の入れ替えのための処分をしているマリはこのシーズンを共に過ごしていた白いニットがもうすでにすっかりと元気をなくしていることに気付いていた。
タートルネックは苦手なマリだったが、ほどよい立ち上がりがかわいいと思っていたハイネック部分もなんとなくよれて、裾も毛羽立っている。毛玉の処理も追いつかなくなってきた。
そろそろ潮時かな、と気付いてはいた。しかしここ数日の寒の戻りでどうしても手にしてしまう便利さも兼ね備えている。

とは言え、いつかは別れを告げねばならない。
そういう決意を持ってマリは白ニットで出来たてのとろみのついた温かいカレーうどんに箸を伸ばす。
南無三、どうせならば一番の天敵と相まみえてから散っておくれーー。
(なおノーブランド品なので次の資源回収でゴミに出す予定ではある)
そっと手を添えていただきます、と小さく一言呟いたマリはゆっくりとカレーうどんを食べ始めた。
本当は跳ねやシミもいとわず豪快に食べたいところだったが、それよりも予想以上にとろみのついたつゆは熱かった。
しぜんとゆっくりとなる手つきに、マリはこの白ニットとの日々を思い出す。

特別な逸品、というわけでもなかったけどちょうどいい存在だった。
疲れているときでも癒やしてくれる生成りに近い白は着てて安心したし、冬場はとりあえずこれを着ておけばそれらしく整えることができた。
よく併せていたのは柄物のスカートだった。マリのクローゼットの中でも特にお気に入りな白と黒のラインで幾何学模様が描かれていたプリーツスカートは何でもない白ニットを特別にしてくれた。
遅刻しそうな朝も何度助けて貰ったことだろう。
白が似合うねと言ってくれた友人もいた。

「(やっぱもったいないかなあ)」
ずるずるとカレーうどんを啜りながら、マリは考える。
シミでも作れば心置きなく捨てられるだろうという思いは、意外と相反していたらしい。
少しでも、この白いニットを捨てない理由を探し始めてる自分がいることに、マリは気付いていた。

カレーうどんはあつく、おいしく、白いニットの保温性はマリの身体に僅かに汗をかかせていた。

もう少し、もう少しだけ待てばニットがいらない温かい、いや暑い日々がやってくる。
やっぱり、おさらばかもしれないな。
汗のじわりとした感覚を久々に思い出したマリは、もう一度決意するように僅かに冷めたカレーうどんを啜った。

「(さようなら、白ニット。あなたとの日々は楽しかった)」

万感の思いでカレーうどんを食べ終えたマリは少しばかりの休憩の後にお風呂に入ることにして服を脱いだが、見事にカレーうどんによるシミはひとつもなかった。しかし、やっぱり一シーズン着倒したことによるくたりとした雰囲気は拭えはしなかった。

「(私、もしかしたら日本で一番カレーうどんを上手く食べる才能があるかも)」

まじまじと感心しながら白ニットを眺めたマリはいつものように洗濯かごに移そうとする動作をしかけたところを慌てて止めて、クローゼットまで移動して袋の中に白ニットを詰め直す。
他にもサイズアウトしてしまった服と共に廃品回収用の袋に詰められた白ニットは、最後までシミ一つなく生き残ったという誉れとともに、鎮座していた。
その姿は、たとえゴミ袋の中でも、疲れた様子を見せていても、毅然としていてマリが白ニットを見初めた店先に並んでいたときと似た輝きをしていた。

残りの洗い物という忘れ物はあったが、マリは大層心地良い気分で湯船に浸かっていた。カレー粉のスパイスの効果で温まったのか、今日は足先まで暖かくお湯の温度は優しくしみこんでいった。

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