スーパーカブでお茶会を 第二話
第二話 【ミセスイエローの審美】
「キミたちにねえ、依頼したいことがあるんだよ」
『Cafe Cherish』のオーナーであるクロサキは、店の小さなカウンターでシロナ特製のウィークエンドシトロンを食べながら神妙な面持ちで話を続ける。
クロサキの見た目はいかにもそのスジの界隈にいるような、細身の躯体に神経質そうな顔立ちをしていて、頬はほんのりと痩けて自然と暗い影が落ち込んでいる。
しかしその内情はただの甘いものが大好きなおじさんである、ということを知っているアカネとシロナはもてなしのためにケーキを出し、それに合うお茶も用意している。今日アカネが選んだ紅茶はニルギリ、水色が明るいオレンジ色をしていてほんのりと柑橘香が感じられるさっぱりとした味わいをしていて、レモンのアイシングがたっぷりとかかった甘い味わいをさらりと流してくれるだろうというのがアカネの目論見だった。
クロサキは紅茶のカップに手を伸ばすと一杯口にしたあとでほうっと安堵したように息を吐く。
「(よっしゃ)」
達成感を抱いたアカネは後ろ手でこっそりとガッツポーズを決めている間にシロナはクロサキからの話を聞こうと一歩前に出た。
「ところで、その依頼とは?」
「……ボクの旧友絡みの話だ」
「へえ、クロサキ氏友達いたんだ」
「アカネ!」
「……いや、アカネくんの言うとおりかも知れない。こっちが勝手に親友だと思っていただけでこの二十年は軽く会っていなかったから」
「それはほぼ親友じゃないのよ」
「ああ、久々の連絡もカレが亡くなったという連絡だったしね」
思わず固まった空気に、どうするのだとアカネとシロナはお互いを小突き合い少しの間をおいて、
「この度はご愁傷様です」
と声を合わせた。
「ああ、気にしないで別に……そんなに会ってもいなかったし、そんなに仲が良かったわけでもないし……ただ一方的にボクはカレの親友だって思ってただけだし」
「めっちゃダメージ受けてんじゃん」
「大変申し訳ございませんでした」
そんな関係だったけれど、亡くなったと聞いたらやはりショックでねとクロサキは続ける。
「葬式に行けたんだったらよかったんだけど、ボクが話を聞いた頃にはもうとっくに終わっててね、四十九日もつい先日だったとカレの奥さんから話を聞いたよ」
「なるほど」
「……で、その話と何が関係が?」
「カレには何もしてやれなかったけど奥さんには何かサービスが出来るかもしれないと思って。四十九日が過ぎて落ち着いたんだったらお茶会でも開いたらどうですかとうちのサービスの話をしたわけで」
「あんた商魂たくましいな」
夫が亡くなってすぐにメイドを呼んでお茶会をするなんてなかなか出来るわけがないぞとアカネが呆れていると、それがだねとクロサキは細い目に阻まれた黒い目でこちらをじろりと見てくる。
「カレの奥さん――キハラ夫人はね、自分でもお菓子作り教室を開いていたぐらいの腕前らしく」
「わ、」
次に反応をしたのはシロナだった。慌ててキッチンに駆け込み戻ってきたところで持ってきたのは【キハラヒロミのスイーツレッスン】と書かれた古い本だった。
「わたしこれ母から受け継いで使ってるんです! 今日のウィークエンドシトロンもこのレシピを参考にして作って」
「なるほど、シロナさんも素晴らしいキッチンメイドだがキハラ夫人もなかなかの腕前ということだな……お茶と本格的な英国菓子という話を聞いたら電話口でまあとか驚いていたが最終的には『是非お願いしたいわ』という話になったところで……」
「おいクロサキ氏、こりゃうち喧嘩売られてるも同然だがいいのか」
「大丈夫だってシロナさんのお菓子は絶品なんだから! アカネさんの紅茶があれば絶対イケる! それに考えてみろその【キハラヒロミお墨付き】の印が貰えたらどうだ! うちの菓子に一層の箔がつくと思わないか?」
「経営者って頭単純っすよね」
「だから前の店うっかり新人だけに任せた日にボヤ騒ぎ出してマジ炎上させちゃってんのよ」
「もうちょっと優しくして貰えないかなキミたち!」
クロサキは荒れた心を凪に戻すために改めてウィークエンドシトロンとニルギリを口に運びさっぱりとさせたところでまたも息を吐くが今度はため息に近かったかもしれない。とりあえず気色を取り戻したクロサキは改めて二人に向き直る。
「というわけで君たちにお願いだ。是非キハラ夫人を喜ばせるティータイムをセッティングしてくれ」
「……だって。アタシはいいけど、シロナは?」
「……いや正直キハラヒロミ相手にお菓子出すとかちょっと難易度高すぎて無理なんですけどでもこんな機会でもないと絶対にあり得ないわけだし、留学前の試練としてはやりたいのは山々なんだけどでも」
シロナがブツブツと呟きながらぐるぐるとその場を回り始める。ロング丈のメイド服の裾がふわりと円状に回転してそれは壮観だった。
「――いや、ここで自分に負けたら勝負に勝つことすら出来ません。私やります」
「シロナくん! いやキミなら絶対にやってくれると信じていたよお」
「ただしアカネ。私からも条件がある」
「な、何、なんだよ」
「決して無礼な振る舞いをしないこと。相手はレシピ本を出すほどの有名人よ。あんたが一つでも粗相をしたなら」
「わーーーかってるってわかりました!」
うざったそうにシロナの主張から逃れようとしたアカネはアカネで、手持ちの茶葉の中でも種類の良いものをリストアップして勘定に入れている。アカネはアカネなりに、負けられない戦いがあるらしい。
「いやあうちのメイドは活発で良いなあ! やっぱりやる気のある二人に頼んでよかったよ! うん!」
「……クロサキ氏も来ます?」
「執事服なら用意しますよ」
「や、やめておくれよそういうのは……」
しかし、とカウンター向かいのキッチンに向かって立ち止まったシロナは手に持った褪せた黄色い表紙のお菓子のレシピをざっと眺める。
「相当前に出されたとは本ではあるけれど、しっかりと定番を抑えていて古びないレシピ集である上に英国菓子への造詣が深い……なるほどイギリス留学の経験ありって著者紹介に書いてある」
「っていうことはド直球ストレートで行くしかないか」
ここで違うタイプのお菓子とか出しても向こうも興ざめっしょ、とアカネが言うとその通りねとシロナも頷く。
「じゃ、とりあえず二人ともこの依頼のこと、受けてくれるね?」
「やりましょう」
「っす」
「ちなみにいつご依頼ですか?」
「来週の土曜日の午後十五時から。まさにお茶会にぴったりな時間指定だね」
「やるな~キハラ夫人」
とはいえアタシたちも本気だが? とアカネが左手の拳を右手のひらに当てて意欲を表してみたところで、ふとシロナを見ると本と向き合ってブツブツとひたすら呟きながら何かを思案しているようだった。
「あと一週間……」
「大丈夫だって一週間もあればなんとか……どうにか? なるって……!」
「なんとかするのが私の仕事なのよ!」
これからしばらくは試作続きだわ、とまたぐるぐると回り始めたシロナを見て、アカネは昔家にいたネコのことを思い出していた。白い毛をしたネコは自分の尻尾を追いかけるようにしてぐるぐる回るのが癖だった。ネコなのにイヌみたいだと笑っていたが、多分もしかしたらあの時のネコは今のシロナのようにもっと複雑な思索にふけっていたのかも知れなかった。
「シーロナ、お茶しよ」
「あとで」
「アタシもウィークエンドシトロン食べたいんだよ」
「ご自由にどうぞ」
「そうじゃなくって!」
声を上げたアカネの声量に思わず驚いたシロナとカウンターに座って残りのケーキを食べていたクロサキが目を白黒させていると、アカネはクロサキの隣にどかりと座りじっとシロナの顔を見る。
「アンタは今冷静さを欠いてる。料理人に必要なことはなんだって自分で言ってたか覚えてる?」
「……常に冷静で他者目線を持つこと……」
「そう、あんたは優秀なキッチンメイドなんだからそれさえ覚えていれば大丈夫よ」
ね? と首をかしげて笑って見せたアカネにつられて不器用に笑ったシロナが、本を閉じて手を洗い直してケーキを盛り付ける。二つの皿に用意されたウィークエンドシトロンにアカネもホッとしてニルギリのポットをティーコジーから取り出した。
「まずは落ち着いて、甘いもの食べて頭すっきりさせよ」
「そうしましょう」
「君たち思っていたより本気出してきたねえ……」
「シロナの目標に一歩でも繋がるんだったらアタシはなんだってやるわよ」
そう言ったアカネの決意に押されるようにそうか、クロサキは頷き、アカネは淡々と自分とシロナの分のカップを用意する。思っている以上にこの二人の絆は強いなと納得したクロサキは、邪魔にならないように退散しようとしたが、まだウィークエンドシトロンが残っているのを確認すると若干意地汚くおこぼれが貰えないものかと期待してしまう。
「……クロサキさんも残り食べます?」
「ええ~いいのお~?」
「わざとらしいぞおっさん」
三人のお茶会はつつがなく、穏やかに進んでいた。
*
「いらっしゃいませ、ようこそ」
翌週の土曜日、アカネが迎えられたのは立派な邸宅の玄関だった。白く塗られたおかもちが合わない、と思いながらそっと上がらせて貰うと柔らかなスリッパが出されてもてなされているのはどっちやらと思いながらリビングへ向かう。キハラ夫人はセミロングのグレイヘアを綺麗に整えふわりとしたパーマを掛けていた。服は品の良いブルーで揃えられたワンピースで、確かにこの人は別格だと思わせる何かが存在していた。
ダイニングに案内されるとテーブルセットはすでにきっちりと整えられていた。
「ごめんなさいね、あまりうちのものを人に触られるのが嫌で、全て用意させていただきました」
「いえ、こちらこそ。素晴らしい品々ですね」
「あら、器にもご興味あって?」
「いやまあ、素人程度ですけれど……」
どう見ても出されているティーセットはオールドノリタケだ、と目が潰れそうになるのを堪えながらお湯はすぐ沸かせるように用意してありますからと見慣れたすぐにお湯が沸くタイプの電気ケトルが置かれていることに安堵してお水だけ頂戴して支度を進める。
「キハラ様、本日は茶葉を選んで頂けるようにいくつかご用意して参りました。本日のお菓子はヴィクトリアケーキでして……」
「……お菓子はあなたが作ったの?」
「いえ、キッチン担当のメイドが担当しております」
「そう」
「夫、アルバート公が亡くなり喪に服していたビクトリア女王が、公務に復帰した事を祝うティーパーティーのために、作られたケーキだとメイドより聞き及んでいます。今回のような機会には適した一皿かと」
「……そうね。茶葉は何?」
「ダージリンのセカンドフラッシュの農園違いです」
「なるほど、力強い風味のセカンドフラッシュにしたのね、ジャムの甘みが強いものにはいい組み合わせ」
私、プッタボン農園のものが好きなの、準備あるかしらと言う一言に勿論ございますと返して一通りのやりとりでアカネはだらだらと汗をかいていた。自分で調べた知識やシロナに教えて貰った知識を総動員してようやく刀が交わし合えるような状態だった。
沸かしたお湯でカップとポットを暖めながら冷静さを取り戻そうと息を吐く。シロナに食ってかかったあの時の自分を思い出せと言い聞かせながらお茶の準備を淡々と進めた。
きっちりと蒸らして3分間、その間にヴィクトリアケーキをサーブして抽出の終わったダージリンセカンドフラッシュ、プッタボン農園をオールドノリタケの茶器に注ぐ。
「こちらご用意いたしました。ヴィクトリアケーキとプッタボン農園産ダージリンセカンドフラッシュでございます」
「ありがとう」
そう言うとキハラ夫人は細いフォークを突き立てるのではなくそのままの勢いでスポンジをひっくり返した。
「え」
「焼き色は裏面含めてまあ合格点ね。こちらのメイドさんも英国菓子にたしなみがあるとは聞いたけど」
「は、はい。現地留学を目指して現在修行しております」
「あらそう、今回の結果如何では私の知っているホテル推薦状がお渡しできるかもしれないわ」
次はつん、とフォークの先で弾力を確かめてからスポンジだけを崩して口に運ぶ。
「いいお味ね、悪くないわ。火の通りもいい。あとはジャムとのバランス……」
「……」
黙っていたアカネは、後ろ手で思いっきり中指を突き立てていた。これはクロサキ氏の顔を立てる案件でもありシロナの将来もかかっている大事な機会だ。アカネ一人がぶち切れたところでなにも代わりはしないしむしろ事態は後退するだけだろう。
だが。アカネがこの世で許せないのは食べ物を粗末に扱う行為そのものだった。
「……やっっぱ我慢できねえ」
「あら?」
なにかあったかしらと目線をそらしたキハラ夫人の目の前にアカネは立つ。
「キハラ様、僭越ながら申し上げます。あなたが海外で学んだマナーは、一体何処にあるのですか」
「……」
「品評会ならまだしもここは『お茶会』の場であるのだとしたらアンタの行為をアタシは許せねえ。シロナの菓子をちゃんと食べてやってくれ。それともアンタはいつもそうやって菓子を品定めしないと食べられないのか? 食事ってのはもっと楽しく、特にお菓子なんてものは幸せに食べるもんだろう?」
長姉として生まれたアカネは、他の弟妹の世話をするときにいつもご飯やおやつを食べているときの様子をよく観察していた。人はどんな時でも何か胃に入れればたちまちに元気が湧いてくる。逆につまらなさそうにものを食べるときはなにか心に詰まっているときの証拠だった。
「……キハラ様。なにか心に思うことがあるならば、アタシに話してくれませんか。アタシはあなたがどうしてそうやってお菓子に向き合うのか、理解が出来ません」
キハラ夫人は、燃えさかるようなアカネの頭の先から足の先までをじっと見てふうっと息を吐く。
「……まずは職業病とは言えあなたが持ってきてくれたお菓子をそのまま食べずにすぐに批評に入ったことを謝るわ。本当にごめんなさい。メイド喫茶、という変なフィルターがかかってしまって疑ってしまったの。あなたの持ってきてくれたお菓子は素晴らしいしそれに……うん、お茶もとても美味しく淹れられている。いい組み合わせだわ」
「ありがとうございます」
アカネが深々と礼をするとキハラ夫人がぽつりと話を続ける。
「……わたしいつもこうなのよ。自分が焼いたお菓子でも、生徒さんが作ったお菓子でも、主人がお店で買ったお菓子もなんでもこう。分析癖っていったら聞こえが良いけど、本当のところはただの重箱の突き合い」
私は私が作るものがいつも正しいってずっと思い込んでいた。そう言ってキハラ夫人は自分の手をそっともう片方の手で包み、まるで身を守るような体勢で話を続ける。
「素直に美味しいって言えば良いことぐらい分かってるの、それが誰からも喜ばれることだって痛いぐらいにわかってる。それでも私は……この癖を手放せなかった。主人ももう亡くなったのにね」
あの人が買ってきてくれたお菓子をすぐに食べておいしいって言うだけでどれだけ私たちの間柄は違ったかしら。キハラ夫人はそう呟いて目線を落とす。
「夫は、私の仕事を認めてくれてはいたけど関心は持ってくれなくてね、私が作ったお菓子もいつも沢山あるからって滅多に食べてくれなかった。食べてくれないお菓子ってひどく可哀想よね。そんなの一番、私が分かっていたはずなのに」
主人はこんな私の意地が悪いところを、いやだって思っていたのかもしれないわね。そう言ってヴィクトリアケーキの焼きむらを調べていたフォークを置いて深々とアカネに礼をした。
「改めていただきます」
「……どうぞ」
小さく一口食べたキハラ夫人は、おいしい、とかすかな声で呟いた。
「おいしいわ、本当に。誰かのためを思って作った優しい味がするケーキで、きっと心が優しい人にしか焼けない味よ……」
「まあ、このお菓子を作ったメイドのシロナってやつは謙遜ばっかりしてるくせに妙に自信満々なところもあって、そんでもって人に嫌われるのが嫌いで、一番になりたいところもあって……そんな奴ですよ。確かに優しいけれどそういう一面だってもっている奴です。優しさだけが特別な才能とは限らないです、キハラ様。厳しさも必要な才能だと思います。ただ一番大事なのは、その場にいる人と幸せに時間を分け合うこと、そうだと思いませんか?」
アカネの言葉にに本当にそうね、と小さくキハラ夫人は頷く。もう主のいない席を残したダイニングテーブルが広がっていた。
「……もっと早く素直になれたらよかったわ」
「今からでも遅くないですよキハラ様。何せうちのシロナの菓子はまだまだ沢山ありますからご用命の際には是非」
「……そうね、またその時にはお願いするわ。ああ、私あれが好きなのよ、ウィークエンドシトロン」
「それならばシロナの得意菓子の一つです! 是非配達させてくださいませ」
「ありがとう。……本当にありがとうね。あなたも、シロナさんもクロサキさんも」
そっとアカネの手を取ったキハラ夫人の手は、確かに老いていたが料理を作る人の手だった。柔らかく丸く、そして暖かい。きっとキハラ夫人のお菓子も絶品なのだろうとわかるぐらいの手の心地の良さに、アカネはそっと添えた手を握りなおした。
「あの人がいる間にこんなお茶会をしたかったわ」
「これからいくらでもしましょう。アタシ、キハラ様のお菓子も食べてみたいです」
「本当に? 嬉しいわ」
私も本気を出さなくちゃねとウインクをしたキハラ夫人の思わぬお茶目さに思わずアカネは笑い出してしまった。
*
「と、いうわけでキハラ夫人からは合格点貰ってきたよ」
おかもちを片手にいえーい、とピースをするアカネの報告に飛び上がって喜ぶクロサキと崩れ落ちるシロナという対比を見て『おもしれーなこいつら』とアカネは心の中で思う。
「今度はウィークエンドシトロンお願いしたいってさ」
「が、がんばる」
「シロナくんのウィークエンドシトロンなら無敵さ! ね!」
「それに……将来的にはキハラ夫人の知っているイギリスのホテルに紹介状を書かせて欲しいって」
「え……?」
「まだ時間はかかるだろうけどここから何回かシロナのお菓子を食べさせて貰って太鼓判が押せるようであれば是非推薦したい、と」
「うそ」
「ホント」
「やだやだやだやだうそうそうそうそ~~~!!!」
「ホントだって言ってんだろうがよ!」
「シロナくん、これでいい一歩が踏み出せるじゃないか」
「まあそれでいったらうちの店、シロナが留学したらおじゃんですけどね」
あはははは、と笑ったのはアカネだけで、そういえばそうだった……という事実を思い出して落ち込んでいるシロナとクロサキを見て慌てて訂正をする。
「いや、こうなったらさ、クロサキ氏暇でしょ? 蕎麦打ちでも覚えて出前蕎麦やればいいんだよ! シロナが留学出たら蕎麦屋のメイドになってやっから!」
「メイドはそろそろ脱いでもいいんじゃないか」
「あ、そりゃそうか」
「もう一回店を閉めることになるのは……やっぱり嫌ね」
「それは仕方ないって、シロナの夢のためだろ」
何かを得るためには何かを捨てなくちゃと言ったアカネの強さを、シロナはどこか遠くに感じながら眺めている。自分にはない強さを持っているから、シロナはアカネと組んでいることが好きだった。
「まあ留学している間は店を閉めててもさ、シロナが戻ってくるだろ? その時にまたやり始めればいいじゃん。活動休止的な?」
「……アカネ、あんた私が戻ってくること当たり前に信じてるのね」
「……? ここ以外に帰ってくる場所、あるの?」
「いやだから、自分の店持つとか、別の修行に行くとかそういうの――」
シロナはアタシのところに絶対帰ってくるに決まってんじゃん」
ね? と念押しされるように言われてシロナは思わず額に手を当てて後ろに後ずさりし、クロサキは仲良きことは美しきかなと眺めている。
「これっだから天然人たらしはっ……!!」
「え、何さどういうこと?」
「はいはい、まあ今回は良い結果になりましたということで祝杯といきましょう」
「お、もう一杯いっちゃう?」
「うちの祝杯は紅茶とお菓子に決まってるから」
クロサキ氏、ただ単に残ったヴィクトリアケーキと紅茶が欲しいだけなんじゃないの? というアカネからの疑いの目にまあまあといなしている間にシロナも冷静を取り戻してケーキの準備に入る。
「……このジャムね、キハラヒロミのレシピに載っているのそのままで作ったの。昔の分量だからちょっとこってりして甘くってね、自分だったらもうちょっと優しい味に仕上げるつもりだった。でも……食べる人のことを考えたら今日はきっとこれが正解だと思って、コッテリ甘いジャムにしてみたの」
「なるほど、それがキハラ夫人のお眼鏡に適ったってわけだったか」
「そう、だから余計に紅茶が合うわよ。支度して?」
「はいはい」
人使いが荒いんだからと言いながらもアカネは笑って小さいキッチンの中へと入り紅茶の支度を進める。二人で入ると精一杯のサイズになるこのキッチンは、今のアカネとシロナにとっての至上の楽園であったし、二人の店を続けるという決意を守るためにクロサキは東奔西走した。
その結果が今、少しずつ実を結び始めているという事実は三人にとってはどこまでも明るい未来の話であって、いつか分かれゆくそれぞれの旅路のことは今のところは遠くに捨て置いておくことにした。
「クロサキ氏、少しでも大きい方貰っていこうなんて意地汚いですよ」
「アカネくんだって同じじゃないか!」
「アタシは今日の働き分のお駄賃もあるからなあ」
「それならボクは今回のキハラ夫人からの依頼をまとめてきたという実績がある!」
「ふたりともきちんと分けてあげるから気にしないでください。等分ね、等分」
「……はあい」
大人揃いの中でらしからぬ不平不満が出た事につい笑ってしまったシロナは心地よい夕暮れの中でケーキの香りと紅茶の香りを堪能できることを心から嬉しく思っている。きっとアカネもクロサキも同意するに違いなかった。
「さあ、できましたよ」
「お茶もお待たせしました」
日の落ちたあとのお茶会は、ランプの明かりが煌々と照っていて、ヴィクトリアケーキの表面に降り注いだ粉砂糖をより一層柔らかく淡く仕上げて見せて皆を穏やかな気持ちにさせてくれた。
「それでは皆様、いただきます」
<つづく>
第三話【ラブオブザグリーン】
第四話【ムテキ・ピンク】
第五話【結構毛だらけ猫灰だらけ】