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映画「神は死んだのか」

天才スピヴェットを観に行った時にみた予告編で、現代日常群衆劇でクリスチャン的な信仰をテーマにしてるのも面白そうだなと勢いで前売り券を買ってしまったものの、年末で忙しく中々観に行く暇がなく、正月休み最終日の今日、ようやく観に行くことができた。(渋谷だと朝一と夕方の二回しかやっていないから、お休みだけど早起き)

アメリカン・クリスチャンムーヴィーと言う事で、確かに所々鼻についてしまう部分、特に他の観客もいうように終盤部分は、より「リバイバル」的な描写が多かったのは確かだった。

ただ、そこに至るまでの、大学生、教授、ブログライター、その親や妻や彼女達のそれぞれの人間模様やドラマは見応えがあった。僕自身もそうなんだけど、何かしらの信仰を持っている人というのは、それは特別な世界に生きているというわけじゃなくて、当たり前の、粗雑な日常の中で、それを抱えて、支柱として生活している。

そんな、ある種のエゴイズムともいえる神への信仰心というものとどう向き合って、社会のなかで生きていくのかというのも、中々ヘビーな命題だったりする。そんなの、人種や性別などと違って、勝手に自分が選んだものなんだからと言っちゃえばそれまでなんだけど、そのアイデンティティーを示さなくちゃいけないくらい、どこか追い込まれてしまった背景がある事が多いんじゃないか。

個人的には、結末はもっと曖昧にしてもよかった(最後のプレゼン後の決議、コンサート)のかなって思った。それでも主張を貫く主人公に、もっと感情移入できる物語があっても良かったのにな、とも。信仰があるがゆえに彼女や夫と決別するというアクションになってるのもちょっと頂けないかな・・最後の例の雨のシーンも、勿体無かったなぁと個人的には思ってしまった。

最後に、これだけ声高にリバイバルを謳っている映画の中で、狩猟行為から銃を肯定するような、分かりやすい右派なおじさんがクリスチャン側として出ていること、しかもその彼が、例のコンサート会場でのSNS布教運動の声掛けをしたという所。本当にこの映画をみて神や聖書に興味が出た人に、まるで押し付けるかのような、そんな演出を敢えて入れたのは、裏の裏の意図があったりするのかななんて・・

しかし、宗教映画ではない普通の映画として、こうやって日本でも公開できたのは良かったとは思う。布教を別にしても、ありのままの信仰者やその周りの人の悩みのドラマを、別な形でもあってもいいんじゃないかな。臭いものに蓋をしたりして極端なものに突っ走るより、よっぽど大切じゃないだろうか。

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