her/世界でひとつの彼女
もしこのまま、この世の中が平和であったなら、こんな哀しくも美しい恋の物語が訪れるかもしれない。
今あなたが、恐らく検索窓やSNSのリンクから辿り着いてこの記事を読んでいるんだと思うけれど、日常的にスマートフォンだったりパソコンのモニターをみる僕らにとって、1番触れている相手、心打ち解ける相手は、家族やクラス・職場仲間ではなくて、もしかしたら、顔の見えないSNSの友達だったり…もしかしたら心があるようにも思えるゲームの先のキャラクターであるのかもしれない。
現実と、そんな世界が、何の違和感もなく交じり合う世界で僕らは生きている。この「her」という物語は、そんな世界の先にある、あたり前の恋愛物語だ。
この映画は、実態のない存在との恋物語であるので、終始「言葉」によって描かれる、言葉のドラマになっている。冒頭から、主人公のしゃべって延々と綴られる手紙の言葉もそうだが、テクノロジーの発展で人々はキーボードやモニターと触れずに、「言葉」によって機械を動かしている。そしてサマンナとの恋だって、言葉とでしか、そして音とでしか、繋がることができない。
だからか、映像もいつものスパイクの撮り方とは少し違う、写真のような、過去の情景の止め絵が不意に差し込まれて、シンプルだけど印象的な演出だった。かいじゅうたちのいるところ以降、数本の短編を手がけたスパイク・ジョーンズの紡ぎだす人の心の描き方は、この作品でより成熟していったと思う。
若者の時代を超えてしまいそうな主人公セオドアは、かつて愛し合った彼女と別居をし、離婚を早くしなければいけないのに、その繋がりを絶つことを恐れている。都心で黙々と手紙代行という仕事をして、地下鉄に乗って誰もいない家まで帰って、テレビゲームをして少し気を紛らわして、そして眠って、また会社にいく、そんな姿を見ている内に、仕事の合間にこの映画を観ている僕らはどこかセオドアと自分を重ねてしまう。
そんな時にセオドアは、人工知能を持つOS「サマンナ」と出会う。言われた事をただこなすコンピュータではなくて、何気ない会話のズレや面白さにサマンナは触れて、だんだんと「彼ら」は親しくなっていく。あるシーンで、ゲームを二人でプレイしている時に、ゲームのキャラクターとも、セオドアとも繋いでコミュニケーションをとるサマンナが、僕は凄く羨ましく思えた。
セオドアはかつての彼女との影を振り落とそうと他の女性とデートをしたりもしたけれども・・・そんな時、いつも直ぐ側にいてくれるサマンナの存在に、セオドアはとても心惹かれて、やがて二人は恋人となる。
その二人のセックスの描写に、僕はまさか涙してしまうとは思わなかった。肉の欲に任された繋がりではありえない、本当に実態のない存在であったとしても、その行為に意味はあった。だんだんと膨らんでいく音楽の演出が本当に素晴らしかった。でもそれは、方から見れば、ただの一人の男のおかしな自慰行為にすごないのだ。
彼の恋愛は、普通じゃない。どんな心と心がつながり始めていても、肉と肉の営みがないとそこは空虚さが残り、どんどん賢くなっていくはずのサマンナもまた、更に彼との繋がりを求めて、そして極端な行動をとることになる。
サマンナとの「恋」は、あり得るのだろうか。日本ではあまり描かれないけれども、普通の恋愛とはずれてしまった、異人種との恋、異性との恋というマイノリティをちゃんと肯定をしていかなくてはいけないと、社会的にも政治的にも模索して、その価値観を変えていっているのが現在だ。劇中でも、二人の恋が「二人の」恋なのだと認知されてもらえるところもあれば、勿論そうではなく否定をされもする。
先ほどの繋がりの描写、そして二人の写真を残すことができないからと、その場の情景を音楽としてセオドアにきかせてあげるサマンナ。その後、セオドアのおぼつかないバンジョーに、そっと歌を重ねていくサマンナの姿が本当に切ない。その小さな小さな歌「The Moon Song」は、エンドロールでも流れるが、それがトリガーになって、歌が流れた瞬間に涙が止まらなくてしょうがなくなった。
そんな二人のすれ違い、サマンナの存在の在り方、その行く末を、大切な人と二人で、また心疲れた仕事の帰り道に、そっと映画館へ覗きにいってみては・・。