アンナ・カヴァン『氷』
可憐で虐待を受けていた少女を、幻影の偶像として追い求めた男の物語。ともすればロリータのように、自らの美学と妄想とを傲慢に紡いだ先を、賄賂や地位を用いながらも、一人でただただ少女と再び出会うために、もくもくと足を進める。立ちはだかるは、少女を賤しめるもう一人の男、長官。
少女を求め、情勢が不安定のなかでもずんずんと景色が変わっていくこの話。初めの印象の、言わば悪者である長官。守るべき少女。そして「私」。その立ち位置が物語が進むに従って、同じくどんどんと変化をしていく。
戦争や紛争、そして「氷」という「世界の終り」が近づく舞台背景は、読んだばかりの「ハローサマー、グッドバイ」のよう。独善的な主人公は、パッと思い浮かぶと、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」の主人公のような、そんな感じかもしれない。
男が日記のように、独白するかのように自分の視点や考えを取り留めもなく、ただただ連なって行く文章は、最初はとっつきづらかった。ケルアックの「路上」のように、風景がどんどんと過ぎ去っていく。しかも時に、それは幻想のような、夢の様な風景も混ざり、この物語はどういう世界なのかというのを説明するのを、この本は拒絶している。
苦労を重ねて、ようやく少女を連れ合うようになった中盤から、少女がかつての偶像のような存在から、主人公を拒絶し罵り逃げまとう、手の追えない女として、そこに存在をしている。対して、あの暴漢のような長官は、地位がどんどんとあがっていく成功者となっており、彼と話す主人公は、彼ととても分かり合う、双子のように理解し合える喜びを感じるようにもなっていて、終盤では立場も大きく代わり、彼のほうがずっと上の存在となった際に、2人が連れ合う際の主人公の、なんというか感性の落ちた平凡さ。そのような価値観が土着的になっていく様、はたからみる主人公の悪人ともいえる自己中心的な歩み・・・
それらの感覚、紛争時における、下世代への蔑みや、ともすれば横暴に人をかき分け倒す様、そんな「感覚」が、なんとも自分には「Twitter」をやっているときの感覚とそっくりだった。有名人との繋がりに天狗となり、作品への高みにいるような批評ぶった姿勢、自分しかみえない世界、そうした感じは、自分の興味があることばかりを繋ぎあわせてできる、独特の情報や感情のやり合いの「それ」への、何となく感じてしまう、居心地の悪さのよう。
主人公は旅の中で仲間も出来ず、出会いも希薄で、目的が過ぎるといつの間にか繋がりも途絶える。血の感じのある家族や友人も出てこない。曖昧な画面の向こうのような少女。横暴に見えて実は自分のような存在の長官。
「世界の終わり」が近づくに連れて、物語は最後には地に足をついて締めた。画面の先や、「少女」への姿勢、そして「長官」への向き合う主人公は、多分、この本を読んでいる自分との合わせ鏡ともいえるのだと思う。