耐えているだけでは、世界は変わらないから
実はずっと息を止めていたのだ、ということに、人に声をかけられたり、それまでいた空間を出るまで気付かないことが時々ある。
たとえば会社にいるとき、みんな忙しなく働いていて、となりの人に気軽に声をかけることもなかなかできない。なんとなく、自分もPCの画面をにらんでいなければいけないような気がして、ブルーライトに目を傷めながら数字を追う。そんなときはどこか不安で、精神は限りなく張りつめている。それと同時に背中や肩のすじも、矢を射る前の弓みたいに限界まできりきりとひきつって痛いほどだ。
でも、そんな状態になっていることに、一歩会社を出るまで気付かないことも多い。たぶん、その状態がその空間にいる人々の間ではふつうだから。
残業を終え、まだ社内に残る人たちの間をすり抜けて外の空気を吸ったとたん、風が秋の夜のにおいになっていることにはっとした。
季節は自分を置いて進んでいく。外で一人になってやっと、呼吸をしたような気がした。
世によく言われる、がんばってスキルを磨いてせっせとキャリアを築かなければいけない、とか、待遇や収入のよい仕事に就くためにはそれが必要だ、ということ。
それと自分の生きやすさとは、全く別方向、別物なのだということ。
社会人としての年数を経るにつれ、はっきりと自覚するようになった。
もちろん、生きていくにはそれがあった方がいくぶん良い、ということは事実なのだろう。けれど、20代のがんばりが!というような文言を見るたびに、心が少し苦しくなる。
誰かに危機感を煽られて考え込んでしまう前に、自分はなにを大切にしたいかを考える、余裕が少しでもあったらいい。
社会に適合できていないような、やりようのない気持ちやある種の劣等感が生まれることもあるけれど、じつは思っているより多くのひとが、そんな呑み下せない鉛のような気持ちを、持っているんじゃないのかな。
自分の感覚と、社会の向いている方向との間に横たわる大きな乖離を見つめながら、最近ではそれも仕方ないかな、と思う。
身を置く場所それぞれの常識や正解があり、それぞれの土地に適応して、暮らす人がいる。
どこを選ぶか、なにに目を向けるか。
なにができるか、なにをしたいか。
自分の内に内に目を向ければ、案外、開けてくる道もあるかもしれないね。
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