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企業の”やりたい”を実現したい!  ColorWiTh株式会社 代表 高橋範慈

【高橋範慈(たかはし・のりちか)】
秋田県大仙市(旧:協和町)出身。
新卒で株式会社パソナに入社後、法人営業/キャリアカウンセラーとして20都県以上を行脚。商工会議所や地場企業と連携した採用イベント、東日本大震災被災者のカウンセリング、防衛省からの受託事業運営など、全国各地の産業や雇用問題に触れながら、数々の新規プロジェクト立上げへ参画。
その後、経営者向け営業部隊を立上げた際、経営層の抱える課題・特命事項に触れたことをきっかけに、自身でも新規事業を志し、若色と複数の新規事業を創出。すべて黒字化を達成。
地方創生ベンチャーの全国営業部長を経て、更なる地域貢献と、すべての企業様が抱く『要望』の実現に尽力したいという想いから、若色と共にColor WiTh株式会社を創業。主にコーポレート全体/戦略固め/バックサイドを担当する。


大手企業とベンチャーで酸いも甘いも経験。この経験がColorWiThに活きている


ーーこれまでの経歴を詳しく教えてください

秋田県大仙市(旧協和町)の出身で、小学校から高校まで野球部に所属していました。実は甲子園にも1度出場したことがあるんですよ。
田舎はどこもそうかと思いますが、秋田に住んでいた当時は、"出る杭を打つ"ような文化、窮屈さをを感じていた部分があり、大学入学とともに上京しました。

大学卒業後は、新卒で株式会社パソナ(旧:株式会社パソナキャリア)に入社。法人営業/キャリアカウンセラーとして20都県以上を行脚しました。
14年勤務したパソナ時代は、1年目に人材紹介業の法人営業に配属されました。同期や上司に恵まれましたが、ちょうどリーマンショックが重なり、売上成績があまり奮わず悔しい思いを経験。
毎日テレアポを100件かけても1件も取れない日々が続きました。

2年目に再就職支援事業部に異動となり、さいたま市、群馬県高崎市の支店へ配属。会社都合で退職になった方の再就職先企業を開拓する法人営業を行うこの部署では、ベテランの支店長に出会い、仕事のノウハウだけでなく、ビジネスマンとしてのイロハや考え方を学ぶことができました。
今でも師匠と呼べる上司に出会えたことも大きかったですが、さいたま北部〜群馬県全域を自分1人で担当する自由さが性に合い、リーマンショックで職に悩む方の助けになる社会貢献性の高い仕事の実感もあり、とてもやりがいを感じましたね。

さいたま高崎支店での経験を評価され、入社3年目で東京本部に異動。全国の求人開拓ヘルプをするチームに着任しました。
ここでは工場閉鎖などで退職者が多数出る地域に1〜2週間出張し、ホテル滞在をしながら、レンタカーで工業団地などをひたすら飛び込みをして求人をかき集めてくる。そんな特攻部隊のような仕事に2年間携わりました。

元々新規開拓は得意ではなく、仕事自体はきつかったです。実は仕事に行き詰まり、何とか音楽で食べていけないか考えた時期もありました。
パソナ時代は、何度も辞めたいと思ったりもしましたが、気付けば通算14年もの時間をパソナで過ごすことができたのは、仕事への意識が高い優秀な同世代メンバーに恵まれたことが大きいです。共に切磋琢磨できたため、非常に楽しかったです。

パソナでは一通り経験できた一方、オーナーシップが強い大組織の中ではしがらみも多く、これ以上やりたいことができないかもしれないと感じ、地方創生ベンチャーである株式会社トレジャーフットへ転職。
トレジャーフットであれば、社長と距離が非常に近い小規模の組織だったので「やりたいことができるのでは」と感じ、転身先として選びました。
すべての企業様が抱く『要望』の実現に、自身の力で、より一層尽力したいという想いから、若色と共にColor WiTh株式会社を創業しました。

野球とバンドを楽しんだ学生時代


ーー学生時代に打ち込んだこと、夢中になったことはありますか

小学4年から高校卒業までの9年間、野球部に所属していました。先程もお話しましたが、秋田県代表で甲子園にも出場しました。

高校当時の写真ではないですが、社会人になってから当時のメンバーが集合し
甲子園で試合をさせていただいたことがありました

私たちの学年は、高校の創立130周年にあたり、周年時には必ず甲子園に行くというジンクスを守るため、県内の文武両道のトップクラスの中学生が多く集められていました。

一方私は、中学野球でも特に目立った選手ではなく、入学も一般入試で何とか合格したいわゆる劣等生で、最初の練習のときから、周囲とのレベルの差にただただ圧倒。練習内容や上下関係も中学野球までとは段違いで厳しく、ついていくのに必死な日々でした。

2年の秋まではベンチ外で、3年の春からようやくベンチ入りすることはできましたが、レギュラーとのレベルの差が大きく、試合にはほとんど出ることはできませんでした。
ただ、あの壮絶な3年間をやり切ることができたこと、また幸運にも甲子園のベンチに入ることができた事実は、自身の財産になっています。


ーー大学入学後は、バンド活動を始めたそうですね。当時のエピソードはありますか?

元々物心ついたときから音楽が好きで、よく親の車の中で邦楽洋楽問わず聞いていました。大学入学後は、ドラム演奏、音楽活動に没頭。バンドでコピーした楽曲は500曲以上。実は今も趣味で続けています。
中高は野球三昧だったため、カラオケ程度で、楽器などはまったくやっておらず、大学入学が決まった瞬間から、「上京したらドラムをやろう」と決めていました。

友人の結婚式では余興でよく演奏させていただきました

大学で自分にあったバンドサークルに出会うことができ、その仲間とコピーバンドをする日々でした。現在も都内のライブハウスで定期的にライブを行ったり、自主制作でCDを作ったりしています。

大学3年の就活をするときに、音楽で生きていくことも一瞬考えましたが、そのバンドが活動を停止したこと、また新卒で社会人をしてみたいという思いもあり、いわゆるバンドメインの生活というよりは、社会人をやりながら趣味でバンドをやる、というスタイルでやっていきました。

なので、ドラムは生涯辞めるつもりはありませんし、いいメンバーと仕事/家庭環境が許せば、今でもあわよくばデビューをしたいとは思っています(笑)。

ちなみに最近は、パパ仲間と子供向け音楽ユニットを始めています。

年に数回、子育て施設などを中心に演奏したいと思っています。

様々な業界や職種を知れる仕事がしたくてパソナに入社


ーーファーストキャリアをパソナにした理由

そもそも両親が高校教師というベースがあり、人に関わる仕事のほうがイメージがついたこと、また大学が文学部でビジネスを知る機会がなく、いろんな方と出会い、様々な業界や職種を知りたいと思って、人材業界にしようと決めました。

パソナの選考では、人事や先輩社員の人の良さと、「社会の問題点を解決する」という企業理念、パソナは人材業界内でも大手にも関わらずまだ伸びしろがあり、自身も貢献できるのではないか?という算段から(私が入社した人材紹介事業は当時業界4番手でした)、選びました。


ーーパソナ時代の思い出はありますか?

さいたま群馬の支店在籍時には、自由な環境で仕事を工夫し、近隣支店の方も巻き込んで、数百名規模が参加する合同企業説明会を企画し実行し、良い経験になりました。
他の売れるハイパフォーマー営業社員と同じことをしても勝てなかったため、自分に本当に向いていることは何か模索した結果、新しいことを企画実行することが好きということに気付きました。

出張先はトータル20都道府県以上、交換した名刺の数は3000枚以上。人脈が広がると同時に、地方出張の魅力を堪能したのはこの時です。
次第に東京本部で企画の仕事をいただくようになり、社内人脈を培ってメンバーを巻き込みながらことを進める仕事のやり方を学んでいきました。

自衛隊員の就職支援を行っていたときもあり、へリコプター見学もさせていただきました

田舎出身だからこそ感じた「地方に貢献したい」という想い


ーー大手のパソナからトレジャーフットに転職した理由は何ですか?

トレジャーフットを知ったきっかけは、若色がトレジャーフット社で、複業として地方企業向け人材マッチング事業を立ち上げていたからです。
パソナである程度希望するポジションや事業をやらせていただいた次のステップとして、転身するのであれば経営や新規事業立ち上げに参画ことができる環境を求めており、トレジャーフット社の理念とビジョン、自分でやりたいことが一致していたので、転職を決意しました。

地方には、事業を創出する方やマネジメント層が少ないため、地元での採用が難しいのが実情です。自社で育てるしかない。一方で、秋田で「もっとキャリアを広げたい」と思っても、地元では仕事がない。
そういう時に、地域を超えて、やりたいことがある企業と、経験豊富に活躍している人材の橋渡しをしたい、と思っていました。


ーー大手からベンチャー転職への不安はなかった?

最初は複業として、トレジャーフットにセールスパートナーとして参画していました。複業期間を挟んでからの転職だったので、ミスマッチは少なかったです。これは不安払拭に繋がりましたね。

また、複業期間があったから、やろうとしているビジョンや事業が具体的に理解できていたことも大きかったです。社員の人柄や社風も分かりましたしね。

社長とは内定をいただくまでZoomでしか話したことがなかったですが、オンラインでも社長の意思やビジョンがしっかり伝わっていました。
トレジャーフットは地方在住の社員が多く、オンラインで他の社員とも交流の機会をいただけて、雰囲気は抜群でした。

充実した日々から一転、起業を決意するまで


ーーなぜ今、ColorWiThを起業したのでしょうか?

トレジャーフットでお仕事をさせていただいているうちに、「高橋さんに事業企画に入ってほしい」というご要望をいただくことが多くなり、自分の力でどれだけ企業のためになれるか?挑戦してみたいと思っていた折に、若色も同じ想いを抱いていることを知り、起業を決意しました。

地元秋田が人口減少・流出と少子高齢化で、もはや数十年後の存続が危うくなってしまっていることは、非常に悲しく、私はただそれをボーッと見てるわけにはいかない、という思いが年々増しています。
そういった想いもあり、特に地方企業の力になりたいという想いを持っています。


ーーColorWiThは若色さんとの共同創業ですが、若色さんはどんな方でしょうか?

若色とはパソナ時代の同僚で、アポイント同行がきっかけで親密になりましたが、最初は「論理的に相手の気持ちを汲み取って話をする人だなあ」と感じました。
客観的な判断ができる、スマートなアウトプットができるだけでなく、しっかり相手の考えていることを汲み取りながら、相手の気持ちに刺さる話をすることができる人だな、というのが第一印象です。

人との関係づくりはできても突出した営業成果は出せない私からすると、あっという間にトッププレーヤーになっていく若色の姿を見て、年下ながら凄いな、何でも売れる人なんだなと尊敬していました。

若色と仲良くなるうちに、新しい事業を起こしたくてパソナに転職してきたという話を聞き、一緒に新規事業に取り組もうと思い、社内の新規事業コンテストに共同で応募しました。
採択された新規事業は、シェアリングエコノミーの事業をやっていましたが、当初は毎日喧嘩をしていました!
深夜まで言い合いをする日もありましたが、おかげで何でも言い合える関係を築けて、今では仕事もプライベートもお互いオープンに仕事ができています。

2人のキャラクターが違うからこそ、今では相手によってどちらがボールを持って仕事を進めるか?が、阿吽の呼吸で分かります。
また、事業拡大にはセールスをどう進めて行くかが非常に重要で、若色はセールスに強い人間なので、やはり若色しかいないな、と改めて感じています。
彼と新規事業を始めて、事業黒字などの結果を残すことができたことが、ColorWiThの創業に繋がっています。

最後に


ーー今後の目標を聞かせてください

自分で言うのもはばかられますが、私はホスピタリティがある方で、敵を作りづらいタイプかと思っています。
個人的な目標としては、これから経営者として自分の事業で様々な会社様にバリューを出していかないといけないので、マネジメントスキル、ディレクションスキル、経営スキルを磨いていきたいです。
スキルの貯金で仕事をしていくところもありますが、スキル貯金に甘んじることなく、自分自身の成長を常に心掛けて、会社の成長に繋げたいです。

「売上はお客様に喜んでいただいた量」とパソナ時代に言われ、この言葉が印象に残っています。お客様に喜んでいただけるよう、存在価値を高めていきたいです。

そのためにも、まずは地域企業のために自分自身が介在して、会社の要望実現にコミットし、サービスの根幹を確立することが目標です。
お客様に成果を実感していただけるよう成果を見える化し、ご支援後、何が変わったか分からない状態を作らない。そのために初回で渡しているロードマップを着実に進めて、動きを止めない。これらを肝に銘じながら、一気通貫して事業を進めていこうと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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