完成の実感と、時間の不思議
「どこまで描けば仕上がりなのか、『完成』なのかが分かりません〜」
というのは、
繁忙期の助っ人に駆り出された、アートワークショップで、
参加者さんからよく訊かれることのひとつです。
「絵を描くのが好きじゃない」というかつての同僚も、
「どこが落とし所か分からなくて、もやもやするから、好かない。」
と言っていたっけ。
どういう「完成」判定が欲しいのかは人それぞれなので、
参加者さんには軽い質問などをして、
納得して作品を持ち帰っていただけるようにしつつ・・・
はて、自分はどうしていたっけか?と考える。
この通り、noteには思い立った時に、思いつくままタイプしているだけですし(すみません)
インスタも本業の休憩時間に、コーヒー片手に数分で描いたものなどを、
気楽にアップしているので・・・
私の毎日の中に、劇的な「THE 完成」シーンは無い。
本業は・・・?
いつもそれは自然にやってくる感じで。
やっぱり、「よっしゃ〜完成!!!(感動)」みたいなもの、皆無。
ただ、すっ。と手が止まる。(それだけ)
頭の方は「まだここ描き込めそう」とか考えるけど、
それやって良かった試しは無い(笑)
・・・この静かで、揺るぎない確信のある判断(?)て
なんなのでしょうか。
脳科学とかでは、わかっていることなのかな。
他の創作活動の方々はどんなふうに考えていらっしゃるのだろう。
もちろん「時間切れ」という制約も作用すると思うのですが、
別に締め切りまでに余裕があっても、
身体的にも疲れていないって場合であっても、
「おしまい」
のお知らせは、感情を伴わずに降りてくる。(従うしかない)
「時間は幻想で、人間の錯覚でしかない」
といったお話も、「そんなわけあるか」とも思えない。
絵を描いていて、いわゆるゾーンに入っている間は
「時間」から見放されている感覚があるので、
「(幻想・錯覚)かもな。そうなのかも。」
と思う。
幻想だろうがなんだろうが、
「時間」が可視化されているのは、
苦しいこともあるけれど、便利。
だってですよ、時間がなかったら、
人間の能力・頭脳で、生活するの・・・
多分、めっちゃ・・・てか、壮絶に大変。。
お釈迦様のように悟れていない煩悩だらけの私たちが
「時間」がない世界で、自我を保つなんてできるのかな。
悟れていない、なんてことないただの絵描きの身としては、
「時間」は神様からの、お助けツール(ギフト)に思えます。
でも、もうしばらくしたらまた、違った捉え方になる気もします。
考えれば考えるほど、不思議ですね。時間て。