やれどもやれども、府に落ちようがないこと
初めに触って動作確認をした時から、今になってもやっぱり府に落ちない事がある。
編み機だ。
編み機は、たしかに何十段、何十目もの編み目が均一に速く編める。
けれど、目が落ちたり、ゴム編みの直し目をしたり、止め目をしたり…と、手編みをはるかに超える手順と工程で完全に合理性を欠いていると感じる。
まったく手作業より遅いとしか思えない。
どれだけ編みながら「否、そんなことはない(ハズ)」と、何とか納得出来る点を見出だそうと作業を繰り返しても気持ちが変われない。
編み機にある良いところ
それは一点だけ。
”均一な目” それだけだ。
編み上がれば、”まるで売り物みたい” には仕上がる。
そのためだけにやっているようなもの。
果たして、それだけで編み機で編むことの魅力や良さに価値はあるのだろうか…。
合理的でないことは、時間と労力の無駄
編み物をしない人や編み機自体を知らない人にも想像が着くように表現すると、
毛糸のセーターの糸がひとつほつれたら、バラバラバラ~と次々にほつれて行ってしまうのは解るだろう。
その現象と同じ事の逆再生で作業しているようなもの、ということだ。
ほつれたものは、一目一目、順を辿って直さなければ編み目は無茶苦茶になってしまう。
編んでいく工程が、正にそれなのだ。
手編みであれば、一目一目を確認しながら編んでいるから、間違えたとしても『手直し』が直ぐに出来る。
しかし、編み機は連続して何十段と一列に編んでいるため、途中の一目でも違っていたら120目を優に超える目数を一目一目見直して、他の目や段までがほつれないように細心の注意を払いながら解き、やり直さなければならくなる。
しかも、それが自分の手でやった間違いでなく、機械編みのキャリッジがすべったために針の動きが正常でなかったために起こる他者の間違いだ。
これを、非合理と謂わずして何と言うのだろう。
やれどもやれども、その思いが払拭出来ない。
だから、無限の可能性があっても廃ってしまったのがようく理解出来る
模様編み、レース編み、独創的な編み方
どれだけでも可能性の拡がる優れた機械のMade in Japanの編み機。
メリヤス工場でやっている事を家庭で手動で叶えられる編み機だが、致命的な欠点は、この二度手間、三度手間の不合理がすべてを台無しにしてしまう。
ほんの油切れひとつでキャリッジが上手く滑らなくなり、きちんとしたやり方をしているにも関わらず目が落ちたり、人間の手作業の方が勝ってしまうのは、機械としては『役立たず』の一言で片付いてしまう。
だから廃ってしまったんだろうなあ。
つくづく、そう思う。
私はミシンもやる。
編み物の方がもっとよく理解出来るから好きで、延々と編み続けることが苦にならない。
洋裁も編み物も、『解き』をして、やり直すのも苦にならない。
それなのに、一枚の真っ直ぐ編みベストを編むだけで、1ヶ月以上も苦になって出来ていない。
気が重い
こんなに神経を張り詰めて、一目一目に集中しなければならないような作業は流石に神経が持たなくて当然だろうと思う。
気が重いのも仕方がない。
それでも何処かに価値を見出だしたい
均一な目
その魅力は、手編みがどれだけ機械的な編み目で編めても敵わないものがある。
この非合理的な手法であっても、手編みでは不可能な細い糸すらも均一にキレイに編める。
ただ、引き換えに細かすぎる糸目と神経衰弱の代償がつきまとうのを我慢出来るか?だ。
メリヤス針を発明した人に感服だ。
ホント、一体どういう脳ミソしてる人なんだ?と、つくづく毎回毎回思う。
本音は、もう辞めたい。
もうやりたくない。
でも無限の可能性のために、神経衰弱をする。
この試練の先に、パアッと開けた明るい世界は在るんだろうか…
やっぱり、どう考えても非合理的だな。と思った