NHK事件の涙
昨日の夜NHKでやっていたのだが、事件の涙:九州大学研究者についてを見た。
何かこの頃のNHKのドキュメンタリーに違和感を感じる。
どこか悲劇っぽくて、どこかドラマチックな構成で、以前のような有りのままを伝える冷静さに欠けている気がしてならない。
昨日の九州大学研究者の事件に関しても、その人は加害者であり被害者でもあったのかもしれないが、現実は研究室を破壊して自殺した加害者だ。
けれど番組では、そのK氏の人生を紹介し、秀才だったにも関わらず親の生活困窮によって『普通の高校には進学せず』と言い、自衛隊工科に入学して、そこから九州大学へ入学した処から、それまでの苦労を紹介してた。
インタビューで答える同級生や通いのラーメン店主など、口々に彼が相当な苦労を強いられて来た、事件を起こすより他無かった、気付いて助けてあげられていたなら等々言っていた。
そうだろうか?
ムッとした気分になった。
どこか世の中のせいにして、どこか生い立ちのせいにして、どこか助けようとしなかった事への言い訳ばかりじゃないのか?
そうしてるだけじゃないのか?
率直にそう思った。
この世の中には不条理なんか腐るほどある。
医者も科学者も元々その才能があったとしても、生まれた家にカネがなければ成れない職業だ。
そんな職種はどれだけでもある。
志や才能だけでは、どうにも出来ない、やれない事なんて沢山ある。
それが、この日本の階級社会だ。
それが、現実だ。
それで?
K氏が研究者としても大学の階級としても、金銭困窮のせいで成し得なかった状況があって、それを苦に自殺と大学研究室の爆発事故を起こした件が免罪されるのだろうか?
そうするより仕方がなかった、というのは彼個人の言い分であって、破壊行動は罪でしかない。
不遇の環境下で、やりたい事、やれる事が出来ない人間ばかりだ。
NHKの番組構成が犯罪を肯定的に報道してどうするんだ!
そんな怒りのような感情が沸いた。
K氏の同級生という人もエリート官僚らしいが、どうして助けてやれなかったんだろう……なんて言えるんだろうか。
むしろK氏は、そういう同情の行為がもっと嫌気の指す思いをさせられていたのではないだろうか。
奇妙なのは、彼は孤独ではなかった処だ。
旧友や恩師、馴染みのラーメン屋など沢山の優しい人々との繋がりがあった。
それなのに事件を起こし自殺した。
孤独とは、誰かが居るとか居ないという世界の価値観が造り出すものではない。
自分自身が自己に対して、他者との関係性の価値観をどのように捉えるかによって産み出される世界観なのだ。
K氏は自己肯定感が強かったから、尚更孤独という魔物に自己否定されてしまっていたのかもしれない。
だから、どうしても成せば為らない現実を受け入れられずに、結局は自他共に破壊する手段で終わらせてしまったのかもしれない。
そんな気がする。
誰でも、生きる事を優先して諦めて生活するより仕方ない思いを多少なりしている。
何故、それを誰もK氏に教えてあげなかったのだろう。
世の中には『仕方ない』としなければ、やりきれない事だらけなのだ、と彼は知らなかったのだろう。
罪を憎んで人を憎まず
それでも、この報道の仕方は間違っている。
罪を悲劇のドラマにしてはいけない。
死んでから、こんな形で自分を紹介されたK氏は憲法や法律に長けて居たようだから、どう感じるだろうか。
母親が遺骨を前に『随分苦労したようだから、ゆっくりお休みなさい』そう言っていたが、彼の気は本当に休まるのだろうか。
すべては死人にくちなし。
感じ取れる思いは、こんな世の中のせいで自分はこんな形で終わるしか出来なかったんだ、という恨み。
それも私に言わせれば、他力本願の無知が招いた結果でしかない。
学問がいくら優れていたとしても、人間的に”生きる”本質を学ばなかったら、それは優れた人だとは言えないと私は思った。
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