私が心理学、精神医学の勉強と研究を辞めた訳

NHK BSPで、ハーロウの研究について放送してた。
途中から観たくないなあと思いながらも、我慢して観なきゃ!と思い最後まで観た。

心理学も精神医学もこころが疲弊する。

それは、それを解き明かす過程で、どれ程の実験の犠牲者があったのだろうと想像すると絶望的な気持ちに苛まれるからだ。


ハーロウの実験

猿をもっと、いつでも観察出来るように実験場で飼育したい
そこから始まった。

猿をもっと増やして、何パターンものエビデンス(最近この言葉好きですよね世の中)科学的根拠を録りたい
それで世界初の霊長類の人工繁殖が始まった。

1950年代は、アメリカで最も心理学の議論が活発になり大流行した時代だ。

古いフロイト理論からの脱却をこぞって学者が名乗りを挙げた。

ハーロウ自身は一体、何が知りたかったのだろう。


霊長類の人工繁殖なんて、倫理も何もあったものじゃない。

ましてや、その子猿を生後12週間で母猿から引き離し、実験に使用するという非道。

『愛着理論』は、社会学者のジョン・ボウルビイが70年代後半に唱えたことで有名だが、それも、このハーロウの研究結果があって発見出来たものだ。


代理母となるタオル

タオルを取り替えようと子猿から奪った時の姿が、今も頭から離れない。
唯一の安心感をもたらすものを奪われた恐怖心の強烈な姿。

ライナスの毛布
これも、この実験があって解った理論だ。

愛着性障害という精神医学にも通ずる実験。


研究を辞めた訳は、

まさに、こういう被害者があって私たちの今日はある。

時代によって、人種によって、国によって、
その観る方向の価値観が皆違う。

アメリカは特に、自由にものを考える風潮で、新しい発想を称えたり、是正したりする。
その度に、いわゆる『診断』が変わるのもアメリカならでは。

17才のカルテでも有名になった
境界性人格障害の捉え方。

その年代では、社会的にそぐわない物の考え方、立ち振舞いが診断を歪めた。

精神が、時代の風潮によってコロコロと変わったんじゃ、たまったもんじゃない。
そんな荒業で、”精神科医” に人格を決め付けられたら、皆、狂った人になってしまう。


でも、ハーロウの実験は事実を語る。

絶望の淵

四角垂を逆さまにしたステンレス製の枡の中に子猿

アナウンサーやコメンテーターの医者らが『ちょっと残酷ですね』とか『逸脱してたのかもしれない』なんて、やんわり言っていたが、残虐そのものだ。

絶望すると解ってて、その絶望する有り様を視覚的に見たかったら行ったのでしょう?

”抑うつを示した” ?
そんな処ではない。
精神を破壊されたのだから、狂気の沙汰だ。


実験と称して、どれだけの犠牲者が人間も動物もされて来たのか。
今なお、されているのか。


心の中、精神の中身を丸裸に覗きたいと思う人間のエゴイズム

私が心理学、精神医学を辞めたのは、こういう常軌を逸脱した先に解る世界を見たくない、知りたくないと思ったからだ。

だから、脳神経細胞の働き方によって、精神や精神神経、心理までもがどのような動きをするのか、またそれらによって肉体はどのような反応を示して、自分たちは動くのか?
そういった ”根源” からアプローチする方を選んだ。


脳がすべての機能を司るのなら、その成り立ちと行程を知りたい。
そして、そこから導き出される連動した精神や情動を解明しつつ、病気や怪我、何かしらの不具合が生じた時に脳はどのような反応と指令で私たちを動かすのかを知ることから始めた方が良いと考えて、勉強を始めた。


けれども、知れば知るほど

まだ解らないことがある、そればかり。

この脳神経細胞学も途中で、ん?と立ち止まるきっかけになったのは、
カニクイザルの研究が邪魔をした。

結局は、ハーロウの研究があって、倫理を無視した残虐な研究者が公開した画像を見てしまったからだ。


カニクイザルの両手足、正中の全ての神経を切断して木枠で固定し、神経が再生していく過程を記録する実験。


嫌になった。


いつまで経っても、実験というものの在り方は変わらない

第何次世界対戦であろうが、戦時中は強者が戦争に興じて人体、動物実験を秘密裏に行って来たのは皆、知っての通りだ。

そういった画像、映像も大なり小なり見せられる事があって、その度に目を覆いたいものを見てしまって、頭に焼き付いて離れない。

ホラー映画で有名なハンニバルも、そのひとつ。
夜中にテレビでやっていて、何だろう?と不信感もなくすーっと見入って、しばらくして
あ!これは異常者のことと判った時には終盤。
別の時にも、また何だろう?と見てしまい、3回も見てしまった有り様。

この手の映画のたちの悪さは、記憶に残らないように、途中がやんわりとしていて、心理的に恐怖心を抱かせないように誘導する点だ。

あまりにもショッキングなシーンや音響効果があると確実に脳が記憶する。

それを回避しながら、ズルズルと『何だろう?』の世界に引きずり込む。


人格障害を題材にした映像作品の策略は、その題材よりもたちの悪い巧妙さに問題がある。


身近に潜む精神を傷つけるドラマや映画には注意した方が良い

人は異常世界で生活をしていないからこそ興味があるのは確かで、自分の身には関係ないと思い込んでいるから見たがる。

普通に、刑事と知能犯とのドラマだと思いきや、それも人格障害が背景にあるようなものが沢山、沢山ある。
そのどれもがヒット作品になっている。

敢えて作品名は論破の対象になるから挙げないが、気を付けないと脳に記憶されて、自分の深層心理や思わぬ願望と一致したときに、ふと甦って、ある種ひとつの手段に成りかねないからだ。


そんなこんなが長年、40年以上の経験が積み重なり
すべての研究を辞めた。

脳神経細胞に関してだけは、まだ少し時折、研究と勉強を必要に応じてしては居るがほぼ接しないようにしている。


向き不向きはある。
外科医が自分のような感覚を抱いたら仕事にならないし、解剖医がこうでは困る。

それでも、その人たちが居なければ困ると思っていても、携わる人たちの脳は大丈夫なのだろうか?
どの様な働きで平常心を保ちながら生活を送れて居るのだろう?と気にはなる。


これが、辞めた理由だ。


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