noteに見出しや画像を付けない理由
毎回、記事を書く度に、見出しを付けると記事を発見して読んで貰いやすくなるというアナウンスが表示される。
そうなのかなあ?と思って、工夫して記事を作ってみたこともある。
必ずしも見出しを付ければ読まれる訳ではない。
雑誌っぽく
そういう体裁を整えたら、noteの趣旨や雰囲気に添っているかのようなものだと思った。
それは他の人の記事を読んでいて、『雰囲気』として構成されているから。
ただ画像や目次を設定されていると、読むのに余計な情報が多く、スクロールする長さも多くなって実は読みにくいと感じた。
あと、やたらと改行が多く行間が空いているのも読みづらい。
内容が充実していれば、白地もあり
文章の構成力が良く、筆者の抱いていることや言い分が流れに乗っていて、読みやすければ、逆に白地のままの方が読みやすい。
紙媒体の本でも内容の濃いものには、むしろ挿し絵は邪魔で挿入されていない。
皆は、”論文” は文字が多く、紙面を見た途端から拒絶反応を示すが、私は論文を読むのに苦はない。
”様式文書” や ”重要事項説明書” も苦にならない。
何故なら必要な事しか書いていない、と最初から解っているからだ。
それと比べると、noteが推奨する見出しや雑誌などは、ページ埋め、スペース埋めのための無駄が多い気がする。
そんな訳で
私は、見出しも画像も目次も付けない。
それでも読んでくれる人やいいねを付けてくれる人がいる
いいね、を付けてくれる人が1記事に1人は居る。
ありがとうございます。
多分Twitterのいいね、とは違って、記事に「なるほど」と思ってくれたり、何らかの共感を抱いてくれたから「いいね」をわざわざ付けてくれているんだと思う。
それって、文章をじーっと読んでくれたからでしょう?
読みながら何かを考えてくれたからでしょう?
それで良いんじゃないのかなあ。
最近、noteの存在に気がついて始める人が増えた。
そしたら、みんな推奨されたやり方で記事にするから、どれを読んでも同じ体裁で、同じ様な文章の流れになっている。
それは『日刊note』という膨大なジャンルの雑誌みたいになっているのと同じだと思う。
面白くないんだよなあ、そういうのって。
YouTubeにしてもサムネイルや出だしの挨拶からみんな一緒で面白くなくなった。
自分の発信したい事を自分らしく作る
これが創作だと思う。
フォロワーを増やせば、フォローが増えて、見ず知らずの人のタイムラインにも表示されるようになる作戦。
自分が良いなあと思うからフォローする訳じゃないんだよね。
人の目に如何にして止まるか?
それが目的だから。
それは、Twitterでやれば良いでしょう。
note という媒体に求める差別化
一言で、文章力と表現力だと思う。
何でもかんでもSNS化していかないで欲しい。
noteの良さは、広告オフの白地というシンプルな画面なのだから、敢えて広告みたいなものを手作業で入れなくても良いのでは?
そういう感覚がずっとあったから、私は見出しも画像も付けない。