平成最後という特集をずっと観て分かったこと
退位のニュースが流れてから、ずっと『平成最後の』というセリフでテレビ番組が、これでもか!ってほど沢山やっていた。
そして、いよいよ一週間となって、昭和の時代を振り返る番組を観てた。
昭和の高度経済成長期、仕事も経済も戦後からの復帰に勢いづいて、人々は生活を豊かにしよう!と沢山の出稼ぎや女性の社会進出で活気に溢れていた。
まるでバブルみたいだなあ~と思った。
お金が手に入ったら…
みんなが夢を見たのは ”三種の神器” なる家電品や団地暮らし。
そうして家庭が充実し、モノ消費をした。
次は、行きたくても出来なかった旅行という ”コト消費” になった。
色々な今まで欲しかったモノが手に入ったら、皆が一斉に抱き口々に言ったのは、
『普通の暮らし』だった。
世の中で『中流』という概念が主流になって、自分たちは中流階級の一般家庭だから、と格差に不満を持つよりも、中流=平和で平凡の方が良いと思っていたみたいだ。
『ふつう』
『一般』
その言葉や概念が世に誕生したのが、この時だったんだ‼️と、解った。
いま、この平成も終盤の時に、多様化し過ぎて、
ふつうって何だろう?と分からなくなって、個性を大事に!一人一人が違ってても良い、色んな思考を認めよう!と差別化にシュプレヒコールを挙げる時代になってしまっているけれど、昭和には、それが何なのか皆分かって居たんだなあと気付いた。
今では地域の中で、サリドマイドや脊髄カリエスの人たちを殆ど見かけなくなった。
何処へ行くのか、何処から来たのかも分からない真っ黒なボロのおじさんも、特定の場所以外で見なくなった。
街中や近所の暗そうな場所で時々すれ違う、オカマのお姉さんも居なくなって、そういう人はテレビや、やっぱり特定の地域でないと見かけないようになった。
私が生まれ育った所には、今でいうマイノリティの人が沢山 ”ふつう” に居て、”ふつう” に同じ町内で生活をしてた。
だから、これと言って特別な人でなく、一緒に地域で暮らしている住人だったし、ちょうど学生運動の盛んな時期でもあったから中核のお兄さんもよくすれ違っていた。
大人たちは井戸端会議で、「関わっちゃいけないよ!」と立ち話なんて当たり前にしてた。
それを聞いて見て居たから、何となく普通の人じゃないんだなあ、という何処か特別な人でもあった。
大人は差別や蔑視を公然として、人権の概念も(未だにだが)なかったから、平気で偏見も言って、蹴散らしていたような時代だった。
私は逆にそれで良かったんだと思った。
自分たちと違う系統の人。
自分たちと同じ系統の人。
そうやって ”自分たちなりの群れ” を作って、ふつうに、平和に、平凡に、安全にそれなりの幸せの中で生きていく生活。
それがコミュニティであり、コミュニケーションの多様性そのものなのではないのだろうか。
自分にとって居心地の良い場所や人たちと楽しく生きる。
今も昔もそれが望みでしょう?
ふつう
その言葉は曖昧で、自分の身の回りの大多数がそうしていること。
昭和の豊かになり始めた時に出てきた言葉と概念がこんなにも複雑化して、平成バブルでもっと、ややこしくなって、そもそも概念が崩壊していると思う。
人々の望むもの全てを社会が全員で許容しよう!なんてことは、無理がある。
グローバルとは、多種多様という意味だが、網羅しきれる程、教育も受けていなければ、心を育てるには余程の人格者の家庭教育や教養を持ちようがないのだから。
ふつうを他人に押し付けたり、強要したり、差別反対!といがみ合うのを止められないのだろうか?
特徴のある生き方をしている人もしていない人も『あなたはそうなんだね』と、心の中でそっと受け止めて(思って)生活すれば、ストレスにならないと思う。
豊かさが招く、価値観のひずみ
矛盾そのものだ。
昭和も平成も今日で終わる。
次の時代には、どんな言葉が人々を苦しめるモノになるのだろう。
平和が良いと訴えながら、傷つけ合う時代をもう止めようよ‼
それを表現出来る、賢くてシンプルな日常会話のキーワードは何だろう?
そんなことが解った平成最後の特番だった。
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