幻の『兵庫県民歌』追跡記録 -最終章-
新年初日から当ても無く不定期で続けて来たこの連載であるが、今回を一つの区切りとする。
もちろん「歴史から“抹消”された『兵庫県民歌』の復元と存在の周知」と言う連載の目的はまだ端緒に就いたばかりだが、今後は製作中のウェブサイトへ情報発信を移行し次のステップとなる“復活演奏の実現”を目指したい。
■おわりに──時代が歌の理念を求めている
筆者が『兵庫県民歌』の存在を初めて知ったのは、昨年の6月だった。それまではずっと、県がまる半世紀そう主張し続けて来たように「兵庫県に県民歌は存在しない」と思っていた。しかし、不自然なまでに「県民歌は存在しない、いらない」と連呼する県の姿勢に疑問を感じて何かに取り憑かれたように古い資料をひっくり返していたら、その歌が──県が存在を否定し続けて来たはずの県民歌が目の前に姿を現したのである。
しかしながら、制定から70年近くが経過しているだけに歌詞を一読した際の第一印象は「古めかしい」だった。そして、次に考えたのが「この歌の存在が周知されたとして、現代に受け入れられないのではないか」であった。そう思った理由は3つある。
最初の1つは、地域の情景が乏しいところ。これは再三指摘した通り「日本のユーゴスラビア」と揶揄されることもある良く言えば多様、身も蓋も無い言い方をすればバラバラでまとまりが無い県の実情を表している。5年後の『北は虹たつ』、そして33年後の『ふるさと兵庫』がたどり着いた結論の「二つの海」と言う県のあらゆる特徴を過不足なく包摂する描写には、68年前は未だ到達し得なかった。
2つ目は、単語の端々が大時代的なところ。後半の3・4番が特に顕著で「民族」や「祖国」に受け入れがたい響きを感じ取る人もいるだろう。個人的には“和魂洋才”を地で行く形で発展した全国有数の多民族性を持つ神戸と言う都市の歩みとは相容れない部分を感じた。この県民歌の制定を主導した岸田幸雄が、まさに「民族」を巡る衝突であった阪神教育事件で在任中に大きな汚点を残したことは必然であったのかも知れない。
そして、最後は「憲法」を前面に押し出している点である。新憲法公布を記念して制定された山形県の『朝ぐもの』や『長野県民歌』はことごとく短命に終わった。兵庫と同じく「憲法」を謳う『新潟県民歌』は今も生き永らえているが、県議会では「陳腐化」を突き上げられて廃止と新県民歌制定を要求されていると言う。実際、この『兵庫県民歌』を知った時の世情では(その論点についてここでは問わないが)「憲法改正」は時間の問題と見られていた。
ところが、である。1年経って「憲法」を巡る多数の一般国民の考え方に顕著な変化が見られるようになった。今や世相が『兵庫県民歌』、ひいては同じ信時潔の作曲で同日、つまり1947年(昭和22年)5月3日に初演奏された『われらの日本』の理念を求めていると言っても過言ではないぐらいのドラスティックな変動が、3ヶ月前と比べても明らかなぐらいである。
しかし、政治がその動きに追い付くまでにはまだまだ時間がかかるだろうし、むしろその動きを抑え付ける力学の方がこれから顕在化して行くだろう。それは国会に限らず、地方議会でも同様である。今の兵庫県議会にこの『兵庫県民歌』の復活を支持する議員は1人も、とは行かないまでも10人もいないだろう。
それでも、半世紀以上も前に欠落したページを埋めることに意義が無いとは思わない。68年前に生まれ、今や日本に2曲しか無い「憲法」を讃える県民歌が革新県政でなく保守県政から生まれたことの意味が問い直されるのは、戦後70年から日本国憲法公布70年に至る今こそが絶好の機会なのだから。
まずは『兵庫県民歌』の存在を知って欲しい。この歌を復活するのか、それとも『ふるさと兵庫』を始めとする別の曲と代替わりさせるのか、議論の土台は今ようやく出来上がったばかりである。
※ヘッダーは「写真素材 足成」掲載の画像を利用
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