「いたみをはかる」に寄せて:天使と屍体はいたみを感じるか?
自宅待機生活のあいだ、《皆殺しの天使》の配信を観ました。といっても、ブニュエルの映画それ自体ではなく、これをもとに最近オペラ化された舞台の映像です。イギリスの作曲家トマス・アデスによって音楽が付けられたこの不条理劇は、ザルツブルク音楽祭で2016年に初演されたあと、ロンドンやニューヨークなどで再演を重ねています(ちなみに、現代オペラで再演が続く作品はなかなか珍しいのです)。
映画があまりにも有名なので、改めて説明する必要もないかもしれませんが、この《皆殺しの天使》は、オペラ劇場の帰りに仲間のひとりの館に集った十数名のブルジョワたちが、(物理的に幽閉されているわけではないにも関わらず)館から帰れなくなり、やがてそれぞれが精神に異常をきたしていく、という物語です。館から出て自分の家へ帰ろうと試みるのですが、そのたびに何らかの理由でその場に留まることになります。やがて、ある方法に気づくことで館からの脱出に成功するのですが、次に向かった教会で、再び彼らは幽閉されてしまう、というところで幕になります。
昨日のItoさんの記事でも引用された、「ウンブラル ー 歴史の閾としての謎」(『UP』572号(2020年6月号)、東京大学出版会、2020年)を再び挙げるまでもなく、「幽閉」というモチーフだけで、今我々が直面しているアクチュアルな問題との類比を思わずにはいられません。しかも、館での幽閉から脱出したブルジョワたちは、「かつてあった普通の生活」に戻ることはなく、再び教会で閉じ込められてしまうのです。
さらに、この《皆殺しの天使》が映画ではなくオペラとして配信されていることに、再び注意を向けてみましょう。ブルジョワたちは、陽気で充足したオペラ鑑賞の夜に、館に幽閉されるのでした。そして、この《皆殺しの天使》を鑑賞する人びともまた、普段は「陽気で充足したオペラ劇場の夜」を期待して劇場に集っている人びとなのかもしれません。ノビレ夫妻やアリシアがそうであったように、《皆殺しの天使》を観に来た人びとは、小奇麗なスーツやドレスを身に纏い、安全に演出された非日常的な愉しみに身を委ねるためにしばしばオペラ劇場に集まっていたことでしょう。この符合こそ、《皆殺しの天使》のオペラ化が孕む、避けがたいドラマツルギーなのです。
そしてこのオペラ版《皆殺しの天使》が、この情勢下で、オンライン配信されたのだから、もっと困ってしまったのです。私は見事に術中にはまったのですから。何が困ってしまうのか、それは、次のテクストを読むとお分かりいただけるかもしれません。
自宅に居ながらにして世界中の劇場をパサージュでき、劇場で鑑賞すべきオペラを自宅から覗き込むことができる、それは愉しいことだけれど、その状況を享受することで、「現実以上に現実的な存在」である自分自身を意識せずにはいられないのです。
zoomを使ったオンラインのミーティングや授業がつづくなか、PCの画面の端っこの画面に漂う自分の顔は、驚くほどフツーです。どこからどう見ても、傷ひとつない、外に出ていないから日にも焼けていない、いたみとは無縁の、仮想屍体です。でも、仮想屍体でいることで、何とかこの状況を生き延びている。われわれが抱えている「いたみ」とは、痛覚を失った先にあるような、バーチャルな「いたみ」、あるいは、ウンブラル的「いたみ」、と言っても良いのかもしれません。
今日のイベントでは、どのくらい「いたみ」に肉薄できるでしょうか。
ちなみに、このオペラ版の《皆殺しの天使》では、オンド・マルトノという珍しい電子楽器が効果的に用いられています。音の原初的状態、胎内過程、羽化前の姿と形容したくなるような、得も言われぬ音色が、このオンド・マルトノによって劇場空間に醸し出されます。おなじオーケストラピットの中には、ヴァイオリンやオーボエなど、はるかに長い歴史をもつ楽器がたくさん並んでいるというのに、おそらく最・新参者であろうオンド・マルトノが、最も原初的で超越的な音を出しているのだから、音楽と言うのは不思議なものです。
なお、この記事は、collectif pointのオンラインイベント「いたみをはかる」でゲスト・モデレーターを務める吉野が執筆しています。
モデレーターだなんて、緊張しちゃいますね。「司会進行」くらいだったら、小学校の学級会以来20年ぶんのノウハウがあるんですけどね…。
おわり
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第一部は、Youtube Liveにて公開します。こちらだけでも、ぜひご覧下さい。
2020年7月18日公開記事