オオイシモヘ 『MAYDAY』 (静岡県静岡市)
多くの小学生がそうであるように他聞にもれずぼくも毎日のように漫画を描いていた。日本中の男子が人生に一度は描くであろう『主人公』が剣を持って冒険するタイプのギャグ漫画である。誰に見せるでもなく描かずにはいられない衝動あれは今思えば ZINE の目覚めかもしれないが、日々廊下を全力でダッシュする少年の有り余るエネルギーと感受性の矛先がノートの上に描かれたスライムかと思うと泣けてくる。けれど、あの時、誰かに褒められた経験や、それを読んだ友達が笑った、という原体験がいまの僕のクリエイティブを形成してると言えば大げさではないように思う。初恋の相手 に笑ってもらった時の感覚はいまでも昨日のことのように覚えていて、仕事のたびに誰かの喜ぶ顔と、村岡さんの顔を重ね合わせる(そんなぼくはいつ大人になれるのでしょうか)。しかし多くの大人が『大人』になるにつれてだんだんと漫画は描かなくなり、読まなくなる。ファンタジーの世界、フィクションの世界に浸ってる時間などないのだ、と言わんばかりに漫画といい加減の距離を置き、ぼくらは本当の現実を受け止められないまま大人のふりをする。漫画を読んでいるやつが軽蔑されるような社会ではいささか寂しいではないか(今でも毎週ジャンプを買って読んでいる友人に羨望の眼差しを贈る)
さて、今回開催された COLLECTIVE の作品の中にもいくつか『漫画』作品がエントリーされている。共通しているのはどれもいわゆる『同人誌』『手作り漫画』というようなコミック体裁ではなく、アートやデザインと並べた表現方法の1つとしての漫画的なアプローチであると言える。伝えたいこと、と、伝えるための手段が重なっている。商業的な『漫画』の多くが、『漫画作品』を生むためにコンテクストやプロットを考えるが、その逆なのがいい。つまりページをめくるまではそれが漫画作品だなんてわからない。
静岡からエントリーしてくれたオオイシモヘさんの ZINE『MAYDAY』は、そのていねいに手作りで編まれた(物理的に『糸』で編まれていて、あえて残された赤い糸のほころびが物語とリンクしていく)表紙だけ手に取っても漫画作品だとは判断はできないのがいい。涙のような水滴ひとつで溶けてしまいそうな和紙は、儚さか。
この本を読んでまず思ったのは、漫画的表現の方が感情をダイレクトに伝える、ということがあるんだ、ということ。言葉本来が持つゆらぎ、行間のゆらぎを頼りない線とだいたんな余白が補っていく。『愛』ではなく『恋』のようなロマンチックを語るにあたって、ナルシシズムなまでの文章に比べて漫画(コマ割り)表現は優れてる。
ぼくはきみのことがすきだ
この12文字を伝えるのに、文章よりもコマ割りされた絵の方がドキドキする。でもこれはもしかしたらオオイシモヘさんのテクニックに限るのかもしれない。
せっかくの分析が俗っぽくなってしまうけれど、歴史を学ぶのに漫画で学ぶという文化がある。文章だけでは退屈で難しいから、漫画にしてしまおうという発想だ(三国志について詳しいやつはたいがい横山光輝の漫画を読んでるね)。
ぼくはきみのことがすきだ
とか、
毎日が楽しい
だとか、言葉だけで伝えるのはすごく難しい。だから、ぼくらはあの頃、漫画を描いたのかもしれない。勉強がいやだ、とか、もっと遊びたいとか、勇者みたいに冒険に出たいっていう気持ちを、へたくそなりに漫画に閉じ込めたのかもしれないと思うと、突然オオイシモヘさんの描く漫画が「感情の波」として押し寄せてくる。手に取れる機会があるひとはぜひこの波のゆらぎを感じて欲しい。
絵の一枚が物語になるような作品を目指している ー オオイシモヘ
ー Written by 加藤 淳也(PARK GALLERY)
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エントリー 静岡
オオイシモヘ
静岡県静岡市出身の絵描き。学生時代、野外イベントでライブペイントに出会い、大学のある愛知県岡崎市内でグループ出展の活動などを経て地元に帰省。その後も野外イベントなどを中心に、展示などに参加し活動する。ライブパフォーマンスでは、下描きなどはせず、言葉だけでは表現しきれない感情の狭間、その場の空気を切り取り表現する。現在は、絵の一枚が物語になるような作品を目指し製作活動に取り組んでいる。
この ZINE について
冊子の定義を自分でつくり、それぞれ作り手によって全くちがうものになるというところに惹かれて、それまであったネタを寄せ集めてZINEをつくりました。「ことば」がコンセプトになっている本誌です。C.S.F(ちょいエスエフ)を楽しんでいただけたらと思います。ー オオイシモヘ