おじさんとおばさんに、隠れされた可能性を見る
一昨日、録画したNHKの漫勉(漫画家の浦沢直樹さんが、他の漫画家の仕事風景を取材する番組)を見ていたら、すぎやまこういちさんが、おじさんを描くのが好きだという話をしていた。できることなら、ずっとおじさんだけを描いていたいですよ、と。
美男美女は、きれいに描かないといけないから気を張ってなきゃいけないけど、おじさんはどんなんでもいい、というか、崩れるほど味が出る、というようなことだった。
そして確かに、すぎやまさんが描いているおじさんの顔は、口がハクション大魔王みたいに横に広がってたるんでるし、無精ひげもなんだか汚らしい。そして、すぎやまさんが、最初にペン入れをしたのはTシャツからだった。浦沢さんが、「袖口がよれよれにのびた感じとか、そういうところすごく見ちゃいますよね」、と言えば、すぎやまさんは、「おなかのたぷたぷしたところとかね」と、ゆるっとした線を引きながら答える。「あと匂いもしますね、臭いんですよ」と、見てきたかのようにすぎやまさんは真顔で付け加えた。
おじさん二人で愛を語っていた。おじさんによる、おじさんのための、おじさんを描く悦び。
男の人って、意外におじさんがすき?という疑問を持った私は、早速、いちばん身近な男の人である夫に聴いてみた。最初は、『男の人はおじさんが好き』という、ざっくりすぎて何を言っているのかわからない私の仮説に、くびをかしげていた夫だったが、その理由を話し、女性はおばさんが好きとか特に思ってなさそうに思うのだけれど、それに比べてどうなのか?という疑問をぶつけると、少し納得してくれた。
「たしかに、そういうことならあるかも。おばさんは主役とかになりづらいかもね」
とドラマ好きの夫らしい返しであった。しかし、主役とか言われると、ちょっと考えてしまう。
「んー、そうかなぁ?でもほら、山村美紗の火曜サスペンスで、着物のおばさんとかいない?」
「ああ、山村紅葉さんね。でも彼女は脇役だから。名脇役」
「え、主人公じゃないの?じゃあ、ほら、あの沢口さんの、えと、・・・監察医?(何か違う)」
「ああ、科捜研の女ね」
するするとドラマタイトルが出てくる夫はさすがである。いや、話がそれている。言いたかったのは、描かれるおじさんが汚くなるほど、いとしさが増すように、顔の肉がタプタプしてしわしわになっていくほど、おばさんが素敵になる、と言えるだろうか?ということなのだ。
私が思うに、ここには女性の自尊心の低さとエイジズムのにおいがする。美しくありたい、あらねばという心理。むかし、黒人女性で初めてノーベル賞をもらったトニ・モリスンが書いた「青い目がほしい」を読んだ時に、衝撃を受けたことがある。日々のCMや映画などで、私たちがいかに西欧の白人が敷いた価値観に染められているかに気づかされて。そして、ミスディオールのCMでは、力強く美しいナタリー・ポートマンが自由に躍動し「and you?」と強い視線を投げかけてくるのを、ぽかーんと口を開けてみながら、やっぱりそのことを思い出していた。
顔や身体の美醜という価値観から解き放たれたいと常々思っているのだけれど、相手は、視覚的な美醜に、正邪や善悪まで絡めてくるのでなかなか手ごわい。美と愛されることを結び付けてみたり、美と解放を結び付けてみたり、美と自由を結び付けてみたり。でも考えてみれば、そのすべてが物事を正負に二極化する価値観の現れなのかと思う。
KingGnuの三文小説みたいに、ずいぶん老けたねって、真顔で言ったら怒られそうなことを、透き通るファルセットで謳いあげることは、実はとてもすごいことなのかもしれない。邪のなかに美があり、醜のなかに純がある。古い価値観をずぶずぶとかき混ぜながら、新しい地平を創っていく。そんなものを私も書きたい。