【短編小説】かたすみの紫
チューリップの球根は、ホームセンターの園芸コーナーで購入した。
ピンクが三つ、白が二つ、紫が一つ。六つあればささやかな花畑になるだろうと思ってのことだ。紫のチューリップがあるとは知らなかったけれど、なぜか一つ入れておかねばならないと焦り、買った。
社屋の裏手にある、数人が立てばいっぱいになる狭小スペースは、以前は喫煙所として使われていた。
総務課が管理する小ぶりなスチール物置から園芸用の土が入ったビニール袋を取り出す。土が今も使えるものなのかどうか、わたしには判断がつかない。永田さんが置いていったものをそのまま使おうとしている。
永田さんは、わたしよりおそらく十ほど歳上の男性社員だった。わたしたちは同じ総務課で働いていた。過去形で語るのは、永田さんが会社を辞めて一年近く経つからだ。
五年前の秋、健康推進施策により会社の敷地内すべてが禁煙となり、最後まで残っていたこの喫煙所もたたまれた。喫煙不可能な狭い場所に足を運ぶ人はいなくなった。
喫煙所を片づけるのに駆り出された総務課の社員は、わたしと永田さんだった。永田さんは円筒形の灰皿がたくさん並んでいるのを眺めて、言った。
「ここにチューリップを植えてもばれないんじゃないかな」
足もとには、レンガで囲われた花壇らしきスペースがあった。スモーカーたちの吐く煙に燻されながら、花が咲いていたこともあったのかもしれないと思わせる、極小の花壇だ。シングルベッドの半分くらいだろうか。
その冬、永田さんは花壇にチューリップの球根を植えた。お昼休みにこっそりと誰にも知られぬように進める作業を、わたしだけが見守った。
「こんなとこに勝手に花とか植えて、いいんですか? ほら、一応、会社の一角なわけで……」
「いいでしょ。もう使わない場所だし、外からも見えないから誰も気づかないよ。物置だって総務課が管理してるわけだし」
確かに、元喫煙所を取り囲む緑色のフェンスぎりぎりには別のビルが迫っていて、花壇はどこからも確認しにくい。陽が当たるのが不思議なくらいだ。
いつも穏やかで気弱そうな永田さんの横顔はなぜか楽しげで、頼もしくさえ見えた。
「風が冷たいね。俺、中学生のとき初めて買ったCDは小泉今日子の『木枯しに抱かれて』だったんだよなあ」
わたしに語っているのか、独り言なのか。永田さんは頬を撫でる風を味わうように微笑みながら、土の中にこっぽりとした穴を掘っていく。穴に球根を入れ、なめらかな手つきで土をかける。
「これでしばらくしたら芽が出て、春になると咲くわけだよ」
手にこびりついた土を払い、スコップをスチール物置の隅におさめ、永田さんは笑った。
*
あのときのチューリップがちゃんと春に咲いたのか、わたしは知らない。永田さんとは仲がいいわけではなかったから、チューリップのその後について確かめることもなく、忘れていた。
永田さんが球根をいくつ植えていたのかさえ憶えていない。気づけば五年経っていて、永田さんももう会社にいない。
一週間前、同じ総務課の大山さんが嬉しそうに話しかけてきた。
「昨日、電車のなかで永田さんに会ったの。永田さん、憶えてる? 一年くらい前に辞めたあの影の薄いおじさん」
女子トイレの洗面台でお化粧を直す大山さんは、最近気になりはじめたというほうれい線に、フェイスパウダーを入念にはたきこんでいる。わたしが曖昧に「ああ、永田さん」と答えると、大山さんはこちらに向き直った。
「永田さん、なあんか相変わらず覇気がなくてさあ。大丈夫かしら。まあ、もともとコミュ障っぽい人だったもんね」
丸みをおびた白い化粧ポーチにコンパクトを戻し、大山さんは女子トイレを去った。返事など求めていなかったのだろう。わたしは口角を引き締め、自分にだけ見える笑顔をつくる。
──チューリップ、植えてみようかな。
そして、わたしはホームセンターで球根を買い、お昼休みの今、こっそり土中に埋めようとしている。
かつて喫煙所だったあの場所の小さな花壇を掘り返すと、古い球根のような塊がころんころんと出土した。正体のはっきりしない塊たちは化石か歴史的な遺物みたいで、出土という言葉がふさわしい。
予定があるからと残業を断った大山さんの仕事を引き受けていた永田さんの背中を思い出す。大山さんを含めた数人の女性社員がわたしについて「あの子、絶対結婚できないよね」と言い合うのを聞いてしまった日のことも、記憶から転がり出た。
柔らかくした土にこぶし一つぶんの穴を掘り、これでいいのだろうかと首を傾げてみる。たぶん、いい。
わたしは穴にそっと球根を置き、スコップで土をかけた。
春には花が咲くだろうか。もしすべて開花するのであれば、紫がいちばん立派に咲くような気がしている。