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恋のほかに花があっても
大昔、「恋愛に興味なさそうですよね」と、言われたことがある。
びっくりした。「若い女性は恋愛に関心を寄せる生き物だ」と世間は見なしている。当時はそんなふうに思っていた。だから、自分がそう見られていないことに驚いたのだ。
たしかに、幼い頃から高校卒業まで、恋愛とは縁遠い生活を送った。ずっと女子校だったから、そもそも恋心を抱く相手がそばにいなかった。
けれど、高校生のとき、坂口安吾の『恋愛論』と出会った。恋とか愛とか、自分が深く関わってこなかったテーマが新鮮だった。
『恋愛論』のなかで、恋とは狂おしいまでに誰かや何かを求める情動であって、愛とは少し違うものだと定義されている。うーん、なんだかわかる気がする、と、一丁前に頷いたものだ。
大人になって、人並みに恋愛するようになった頃、坂口安吾の言葉があらためて胸にしみた。
どちらかが電話に出なかったとか待ち合わせに遅れてきたとか、そんな些細なことで恋人と喧嘩したときだったと思う。我に返って自分がバカだとつくづく感じた。「恋愛って、人生を無駄づかいすることなんじゃないだろうか」と情けなくなった。
さすれば、バカを怖れたもうな。(中略)恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。
なんだかやたらと説得力があった。硬派な口ぶりの、無頼派の先輩がそばで恋愛談義をしているような臨場感さえあった。私は高校生のときとは違い、実感をもって「うん、うん」と頷いた。
頭でっかちに恋愛をとらえていたあの頃と、実際に恋愛を経験してからとでは、感じ方が大きく異なっていた。
おお、実践って大事。文章の心へのしみ入りようが全然違うなんて。
坂口安吾によれば、人はそもそも孤独なものらしい。だからこそ、必ずしも恋愛で満たされるとは限らないとわかっていながらも、それに手を出してしまうのだろう。
私は他人の恋愛について聞くのが好きだ。そこには「実践する人」の姿が見えるから。孤独を抱え、傷つき、それでも恋とか愛とかに情熱をかける人を見ていると、応援したくなってしまう。
今となっては、恋愛のほかにも人生の花はたくさんあると思っている。「恋よ、愛よ」に関わらない人生の楽しみなんて、そこらじゅうに転がっている。恋愛にエネルギーを注ぐ気も、もうない。
でも、恋愛を唯一の花だと言い切った人の頼もしさには今でも酔っている。
そして、この世は実践してみないとわからないことに満ちているなぁ、と思うのだ。