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共感は苺のかたち

苺を買った。清水の舞台から飛び降りるつもりで高価な品を買い求める、いわゆる「清水買い」だ。だって、8粒入りで約1000円。年末ほどの値段ではないものの、ひゃー高い。

2025年になってはじめての苺は甘く、ほんのり酸っぱく、早とちりの味がする。

わたしが子どもの頃は、苺はこんな真冬には出回っていなかったはずだ。2月終わりにようやく見かけるようになる果物だと認識していた。もしかしたら、両親が倹約家だったからビニールハウス育ちのきれいな苺を買ってもらえなかっただけかもしれない。

小学生のとき、母に苺を買ってもらい、妹と二人で大切に食べたことを不思議とよく憶えている。

わたしたち姉妹が「お母さんもいっしょに苺、食べようよ」と誘うと、母はなぜか不機嫌そうに断った。

「お母さんはいいから、二人で食べなさい」

ああ、そうだった、と納得した。母はいつもこうだった。おいしいものは子どもに優先的に食べさせる。苺もパパイヤも、ときには奮発して買ったいいお肉も。

母の育児は自己犠牲スタイルだったのかもしれない。自分のことよりも、まず子どもを。それが母の愛情のかたちだったのだと今では確信しているし、おかげでわたしは不自由なく育った。教育費だって、母と父が倹約のすえ捻出してくれたものだ。

でも、わたしと妹だけで苺を食べるのではなく、半分ずつに分けてでも母といっしょに味わいたかった。「おいしいね」とか「まだちょっと酸っぱいね」とか、言い合いたかった。

あれは共感を求める感覚だったのだろうと、今になって考える。

わたしは共感至上主義者ではない。共感だけをよりどころにしていたら解決しない問題はたくさんある。共感だけじゃ生きていけない。

しかし、共感が人と人を強く結びつけるのは疑いようのない事実だとも思う。「わかるー!」と言い合ったところで物理的になにかが変わるわけではないけれど、孤独は薄らぐ。共感にはきっとそんな効能がある。

わたしにとって、共感の原型はあのときの苺だ。苺のおいしさを共有することで、母との絆はもっと深められたと思う。

週末、母は我が家へ来る予定だ。うちの双子の娘たちは「ピアノも教えてもらうんだー」と、今からばあばの来訪を心待ちにしている。

そのときにみんなで苺を食べようか。あのときしそこねた共感をもう一度つかんでみたい。30年の時を超えて「苺、おいしいね」をやってみるのもいいじゃないか、と思っている。


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