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なんとかなるを積み重ねて。

先日、友人とお茶したときに教訓という言葉をつかった。

文字として見かける機会は少なくないけれど、自分の口からはなかなか出ることのない言葉、それが「教訓」ではないだろうか。「これまでの人生でわたしが得た教訓は……」としょっちゅう語る人がいたら、ちょっと近寄りがたい気がする。

でも、そのときばかりは「教訓」をつかった。

友人は結婚したのが早かったので、もうけっこう大きな子がいる。彼女が自身の子育てを振り返って、「まあ、なんでもなるようになるよ」と言った。子には反抗期もあったし、同級生ととっくみあいの大喧嘩をしたこともあった。しかし、今になって思えばだいたいのことは「なんとかなってきた」のだそう。

わたしのほうはまだ育児歴7年の若輩者だ。それでも、彼女の「なるようになる論」には大賛成である。

今年8歳になる双子の娘たちが赤ちゃんの頃、わたしは睡眠不足と疲労と、自分でも説明のつかないメンタル不調とでボロボロだった。「もうあかんかも」と思ったことも一度や二度ではない(あまり憶えていない出来事も多いのだけれど)。

そんなとき助けてくれた人たちのあたたかさや、助けられたときの気持ちだけは忘れていない。胸の内からゴロッと石でも出たかのように、気分が軽くなった。そして、また前に進めた。

そういうことを繰り返して、いつのまにかちょっと楽になった。もう娘たちは夜泣きしたり、かんしゃくを起こして叫びまわったりしない。6、7年前のわたしには「大丈夫、なんとかなるって」と声をかけたい。

だから、わたしたちが子育てで得た教訓は「だいたいのことはなんとかなる」だ。

会社員の頃、わたしが落ちこんでいると「だいじょうぶ、なんとかなるって!」と励ましてくれた先輩がいた。ちょっと、なんて気楽なこと言ってくれちゃってんですか、とムッとした当時の自分はまだまだいろんなことを知らなかった。

大変な状況を「なんとかしてやった」という実績が積み重なり、自信につながる場合も多いと思う。仕事でも、子育てでも同じだ。さまざまな場面で「なんとかなる」の姿勢は有効なんじゃないだろうか。

「もうあかんかも」を「なんとかしてきた」記憶は、自負をつくる。なんとかできるわたしのできあがりだ。

来年度のわたしは地域の重要な役を引き受けることになった。よし、なんとかやってやろうじゃないか、と自分を奮い立たせている。

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