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50年の友情がまぶしい

実家の母がよくわからないことを言って訪ねてきた。

タブレット端末を使ってZoomでミーティングをしたいのに、うまくいかないと言うのだ。「わかんない、わかんないのよ」を繰り返している。

どこがわかんないのか尋ねると、「なにがわかんないのかがわかんないの。うまくいかないのよ」を連発する。そんなの、わたしもわかんないよ。

そこへ、ミーティングのお相手と思しき方から母のスマホに電話がかかる。「どうなった? 画像は共有できるようになったかい?」。歯切れのいい東京弁が少し聞こえる。

画像を共有? 画面共有のことか? わたしがいろいろと設定を確認しているうちに時間が経つ。そのあいだにもお相手から電話がかかってくる。「どうだい?」。

あせりながらも、母から「わかんない」の中身を聞き出すわたし。しばらくするとまた鳴るスマホ。えーい、なにがなんなの。

結局、ミーティングに参加してもビデオがオフになっていて互いの顔が見えないということだった。ただそれだけだった。どっと疲れた。

そのあと、無事にミーティングが開催されたようで、母はうちのリビングを使っておしゃべりを楽しんでいた。小一時間を失ったわたしは釈然としないけれど、まあいいかとキッチンで料理を進めた。

帰ろうとする母に「なんのミーティングやったん? 絶対Zoomでやらなあかんことやったの?」と聞いてみた。心のなかに、かすかないら立ちがくすぶっていた。

母は言う。

「大学の同級生やの。ケガの後遺症があって気軽には会えへんのよ。だから、Zoomでみんなと顔を合わせたがってたんよ。私らもみんなで励ましたかったんよ」

そういうことか、とわたしは頷いた。

母が東京の大学を卒業して約50年が経つ。同級生とはなかなか会えない時期もあったと聞く。それでも友情は続いてきたのだ。自由に出歩けない仲間のために、「よくわかんない」Zoomとやらを使ってオンラインで集まろうとした母たちを思うと、じんわりと胸が熱くなった。

わたしも人間関係は細く深く、長いほうだ。ミッションスクール時代から30年以上つきあっている友人、大学時代に知り合い、今も会う友人がいてくれる。彼ら、彼女らとずっとこのままつきあい続けていきたい。そうなればいいなあ、といつも思っている。

ただ、友人づきあいは相手のあることだから、いつどうなるかわからない。だからこそ、親しき仲にも気づかいを忘れないよう心がけて交流している。なんでも話せる友人であったとしても、なにを言ってもいいわけではない。

そう思っているから、「Zoomわっかんないのよ!」と言い合っていた母たちがあとになってなんだかまぶしく思えた。

わたしたちも50年以上にわたって縁をつないでいけますように。

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