困ったちゃんの笑顔
少し前、母の小旅行に振り回された。
「近鉄特急って切符いるんだっけ?」母が聞いてきた。ある夜、娘たちを寝かしつけたわたしのもとを訪れた母。嫌な予感がした。
「近鉄は特急券、いるでしょ。どこ行くの?」
「お伊勢さん。AさんBさん、Cさんと『同じ特急に乗ろうね』って約束してるの」
語尾に(はあと)と書き足したいほど浮かれた口ぶりである。
「特急券、買ってんの?」
「買ってない!(はあと) やっぱり切符いるの?」
もう語尾に(はあと)をつけておいた。どう見ても浮かれている。聞いているわたしはくらくらと目眩に近い感覚に襲われた。
「いつなの、旅行?」
「3日後(はあと)!」
なんということ。母が友人と同じ特急に乗り込みたいと言うのなら、念のため、特急券を事前に買っておいたほうが安心ではないだろうか。
Web上で確認したところ、指定時刻の特急にまだまだ空席はある様子だ。でも、旅行のときにバタバタするのは避けたいし、万が一、空席がなくなってしまうと困る。そうなった場合にパニックに陥る母が容易に想像できて、またくらくらした。
「しゃーないから、予約しといてあげるよ」とわたしが言うと、母は妙に決然と言い放った。
「紙の切符で持っておきたい」
なんで。なんでなの。インターネット予約でいいんじゃないかと説得したのだけれど、頑として聞き入れてくれない。
仕方ないので、大阪難波駅ちかくに出向く用事があったわたしが、母の代わりに特急券を買うことになった。「特急券の買い方がわからない」と母が動揺しはじめたものだから、どこまでも仕方なく、である。
結果として、無事に特急券は買えた。「まあ、ついでだったからね」と言いながら特急券を渡すと、母はへんにしんみりした様子でひとりごとじみた言葉をこぼした。
「大学のときのお友達と行くねん。楽しみやから、切符を大事に持って乗り込みたいのよ」
こんなふうに言ってはよくないのかもしれないが、なんだかかわいらしいなあ、と思った。友人との旅行が楽しみで、当日まで特急券を大切に持っておきたかったとは。
急なことで、用事を済ませたあと、わたしは母の特急券を買うためにかなり、かなりバタバタした。けれど、まあいいか。遠足を心待ちにする子どものような母の笑顔を見ることはなかなかない。
今回の母はそれなりに「困ったちゃん」ではあった。しかし、日常にこんな「困った」がちょっとくらいあってもいいんじゃないか。
ただ、次回に備えて、使い慣れない電鉄会社のチケットであってもスムーズに買えるようになっておいてもらおうとは思う。