飯沼貞雄の墓 / 会津若松市
飯沼貞吉(後に貞雄と改名)は1854年4月22日(嘉永7年3月25日)生まれ。
貞吉の父親の妹が西郷頼母の妻であるため、頼母とは叔父甥の関係にある。
15歳の時に16歳と詐り白虎隊に入隊。
貞吉は敗走の末に飯盛山で脇差を喉に刺し自決を試みるが後へ通らず、3度目にしてようやく通ったがそのまま意識を失った。
息を吹き返したところを印出新蔵【いんで しんぞう】の妻 ハツに救出された。
印出ハツに助けられて塩川に辿り着き、醸造業を営む近江屋に匿われた。
近江屋跡地は現在、東邦銀行塩川支店となっており、敷地には飯沼貞吉ゆかりの地の碑が立っている。
町医者の三本住庵【みつもと じゅあん】と長岡藩軍医の阿部宗達などが治療し一命をとり止めた。
数日後、塩川から喜多方市岩月町入田付沼尻の紫雲山来迎院清流寺へ移動し匿われる。
その後、長州藩士 楢崎頼三【ならざき らいぞう】が長州へ連れて帰った。
飯沼貞吉が長州へ行った事は会津でも長州でも極秘事項だったようで、会津では貞吉の母だけに知らされた。
西郷頼母も知らなかったのだろうか。
明治維新後は逓信省通信技師として働き、仙台市において76歳で死亡。
本人の意向により遺髪と歯が飯盛山に埋葬された。
※飯盛山の案内板には義歯とあるが、抜け落ちた歯としている記録もある。
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