18.蛮勇と呼ばれるもの
その日、ケネス・オルブルームのメイドの1人であるローラは荷車を馬に引かせ、主人が支配している村に向かった。荷車には木桶が載せてある。彼女はこれから自分と相棒が飲む血を採りに行くのだ。
村の住人たちの血は不味い。そんなことは重々承知だが、手軽に一定量の血が手に入れられるというのは吸血鬼とその眷属にとってとても便利なことだ。吸血鬼は血を飲めば飲むほど強くなる種族。その眷属も同様であり、力の源が確実に手に入るならばデメリットも許容できる。
森の野生動物から血を得るのは時間がかかるし服も汚れる。不味い血でも絞った果実を混ぜれば飲めないこともないので、苦労するよりはと定期的にローラたちは血を採りに村を訪れていた。
鬱陶しい日差しを日傘で遮りながらしばらく歩くと村の中に入る。家々の窓から畏れと一部憎しみのこもった視線を浴びるがローラはさしたる感慨を持たなかった。あれらは主人の所有物に過ぎない。それにどんな感情があるかなど気にすることはないとローラは思っていた。
やがて一軒の家の前に立ち、ドアをノックする。予め通告してあるので家の中には誰かしらいるはずだ。
さほど間を置かず扉が開かれ、年の頃15・6ほどの女が顔を出した。悲壮な決意と諦めを顔に貼り付けた彼女はローラに恐る恐る告げる。
「あの、ここではなく家の裏でお願いできませんか?」
彼女の後ろには両親らしき男女が深刻そうな雰囲気で娘の様子を見守っていた。血を取るくらいで大袈裟な、とローラは思ったが無駄に反抗されても面倒なので「よろしいでしょう」と頷いておく。
「ではこちらへ」
木桶を手に歩き出したローラに付いていこうと娘が足を踏み出すその瞬間、不意に幼い声がかけられた。
「お姉ちゃん、どこか行くの?」
まだ10に届かぬだろう小さな女の子が娘を不思議そうに見ている。布を巻いたボールを手にしているところを見ると、転がったボールを取りに来てこの場面に遭遇したようだ。
「ミナ、ダメよ。向こうで遊んでなさい」
娘が困ったようにミナと呼んだ少女に呼びかける。
「お出かけするの? 私も行きたい」
子供らしい無邪気さでミナはにへらと頬を緩ませた。これからローラたちが何をしようとしているか、想像もしていない顔だ。
ローラは幼い少女を見下ろし、娘が彼女を追い払うのをじっと待っていた。しかし、ふっとある考えが頭を掠める。
そういえば、まだ子供の血というのは試したことがないな、と。
ふっくらとした柔らかい手首から滴る血を想像し、ローラはほんのわずかに口角を上げた。どんな味がするのだろう? 一度試してみたくなった。
説得を試みる娘にミナはなかなかうんと言わない。ミナに目線を合わせて話す娘がローラを振り仰ぐ。
「すみません。今すぐ向こうへやりますから、もう少し……」
そう言う娘の言葉尻がしぼむ。ローラの目が己に向いていなかったことを怪訝に思った娘は、彼女の視線がミナの手首に注がれているのに気付いてさっと顔色を変えた。
ゆっくりとローラが二人に近づくにつれて、娘の額に冷や汗が増えていく。
「今、何を考えてらっしゃるんですか……?」
恐怖に震える声で娘が尋ねる。ローラは答えず、きょとんと見上げてくるミナの前に立った。酷薄な笑みに染まるローラの顔を見て、彼女のやらんとすることを悟った娘が庇うようにミナを抱きすくめた。
「お願いします! やめてください! 私ならいいんです! でもミナは、ミナだけは!」
ローラの捕食者の瞳とその場の雰囲気から、悪いことが起こっていると察したミナの表情に不安と怯えの色が浮かぶ。
娘の懇願などローラは気にかけていない。娘をミナから引き剥がそうと手を伸ばしたとき、
「やめろ!!」
大気を裂くような鋭い声が響いた。
若い男の声だった。ローラは首を回して声の主を探した。彼女たちの周りには野次馬が何人か集まっていて、その中から肩を怒らせて1人の若者が歩み出てくる。
見覚えがない。はて誰だったかと思案を巡らせながらローラは小首を傾げた。
「なんですか、あなた? 邪魔しないでいただけます?」
おい、やめとけデリック、と野次馬の1人が若者の肩に手を置く。それを振り払ってデリックはローラに言った。
「お前、ミナを傷つけるつもりだっただろう! 子供に手を出すつもりかよ!」
ぴきりとローラの額に青筋が浮かぶ。なんだこいつは。口のきき方がなっていないんじゃないのか?
そう思い、実際に不快感を露わにしたローラはしかし丁寧な言葉遣いをやめなかった。
「だとしたらどうだと言うんです? 外野は引っ込んでいてくださいませ」
イライラをぶつけられた若者、デリックはそれでも怯まなかった。近くにいた者の薪割り用の手斧をひったくってローラに向け構える。
「やめろよ! でないとこいつで頭をかち割るぞ!」
「あらあら、大きく出たわねボウヤ。威勢の良いこと」
凶器を向けられたローラは嘲笑を漏らした。斧を握るデリックの手は震えている。虚勢を張っているのが丸見えだった。攻撃してくる度胸などありはしないだろうし、万が一本当に斬りかかってきても自分に叶うはずがない。
「あっははは! そんな脅しが私に効くとお思い? 怪我しない内に私の視界から消えなさい!」
ぴしゃりと言い切り再びミナに視線を戻す。手を伸ばそうとすると
「馬鹿にするなああああ!」
と雄叫びを上げてデリックがローラに突進してきた。斧を振り上げて迫るデリックを半眼で見据え、ローラは不満そうに鼻を鳴らす。
振り下ろされた斧がローラに届く前にデリックの手首を掴み、攻撃を中断させる。そして怪力を持ってデリックを振り回し、軽々と放り投げた。
デリックは家の壁にぶつかって苦鳴とともに斧を取り落とす。倒れ込んだデリックが斧に手を伸ばそうとするが、すかさず近寄ったローラはその手を踏みつけた。手斧を拾い、背後に放る。
「くそ! くそ! くそぉ!」
悔し涙を流し足をどかそうとするデリックの手を蹴り払い、ローラは彼の頭を掴んで壁に投げつけた。
「家畜の! 分際で! 私に! 歯向かうんじゃ! ない!」
言葉とともにデリックの腹を5度蹴りつけたローラは蹲る彼を見下ろして吐き捨てる。
「殺されないだけありがたいと思いなさい。クソ虫が」
その瞬間、ローラの後頭部に衝撃が走った。数瞬遅れてきた久々に感じる痛みと、うなじを垂れる液体の感触。うなじを触ると温かいとろりとしたものが手に付いた。
「……はぁ?」
疑問が彼女の頭を埋め尽くす。自身の手に付着した血を呆然と眺め、そしてゆっくりと振り返る。
そこには手斧を握り、泣きそうな顔でローラを見る少女、エルシーの姿があった。