短編小説【月に跳ねる】

 ああ、これは夢だな、となんとなく分かった。 

 根拠はないが、不思議とそれは間違いないと思えた。妙に現実味がある夢だ、と冷静な頭で考える。

 柔らかな芝を踏みしめる感触も、初夏の夜の暖かい空気も、周囲から聞こえる虫の合唱も、さわさわと風に揺れる草の音も、何もかも現実と変わらない。

 手を顔の前に持ってくる。手のひらを開く。閉じる。頬をつねってみる。痛かった。ちょっとだけ、本当に夢なのか自信がなくなった。

 だけどまあ、気付いたら草原のど真ん中だ。これが夢でなくてなんだというのか。

 自分の身体に視線を落とす。ジーンズにTシャツ。寝たときの格好そのままだ。辺りに首を巡らしてみるが、暗くて遠くまでは見渡せない。

 夜空を仰ぐ。ひたすら広い天上には星が瞬いている。けれど、月だけは雲に隠れて見えなかった。

「…………」

 気分が重かった。今日は嫌な出来事があって、それをまだ少し、僕は引きずっているのだ。知らず、ため息が漏れる。

「暗いなぁ」

 不意に、呆れたような声が耳に届いた。声のした方に視線を落とすと、それはいつの間にか目の前にいた。

 真っ黒い毛並みにビー玉のような薄緑の目。口元のヒゲをぴくぴくと動かすそれは、見間違いようがなく猫だった。

 ただ、目の前の猫は子供向けにデフォルメされたような可愛らしいデザインをしていて、二本足で立っている。

「ため息なんて吐いてさ~。何か嫌なことでもあったのかい?」

 甲高い、でも愛嬌のある声で黒猫は言う。

「うん、ちょっとね……」

 多少驚いたが、夢ならこういうのもありなんだろう。

「ふ~ん。まあ色々あるだろうけど元気だしなよ。暗い顔してちゃ幸せが逃げてくよ~?」

 その軽い言い草に、他人事だよなあと僕は苦笑した。

「そうそう。済んじまったことはいくら悩んだってしょうがないぜ?」

 別の声が割り込んでくる。顔を右に向けると、茶トラ猫が前足を組んで立っていた。黒猫より少しだけ声が低い。

「いつまでも浮かない顔をしているから――」

 今度は左から声がした。僕の左に立った白猫は、夜空を指し示し、綺麗な声で言った。

「ほら、月が雲に隠れたままですよ」

 つられて空を見上げれば、相変わらず雲が邪魔をしていた。

「僕が暗い顔をやめれば、あの雲は晴れる?」
「そうだよ。せっかく綺麗な月なのに、もったいないでしょ」
「……それもそうだね」

 黒猫の言葉に僕は頷いた。気分を変えるために、目を瞑って深呼吸をしてみる。

 澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込むと、頭の奥がすっきりして、心が軽くなった気がした。ゆっくり息を吐き、瞼を開く。

 雲が徐々に薄れて、真ん丸の月がその姿を現した。

「うわ……」

 思わず感嘆の呟きが漏れる。月明かりに照らされて浮かび上がった景色に、心の底から驚いた。

 自分が立っているのはただの草原ではなく、色取り取りの花が咲き乱れる広大な花畑だった。見渡す限りに色鮮やかな花が咲き、まるで巨大な絨毯が敷かれているようだ。

「さてさて、月も出たことだし」
「いい頃合いだな」
「ええ、そろそろ行きましょうか」

 言葉を忘れ、景色に見惚れていた僕の周りでは、猫たちが楽しそうに頷きあっていた。

「行くって、どこへ?」

 不思議に思って黒猫に訪ねてみる。

「月に行くんだ」

 黒猫は嬉しそうに言った。

「月?」
「そう、月だよ。君も一緒に行こうよ」
「僕、も……?」

 突拍子もない提案に、困惑してしまう。

 月へ行く? そんなことが出来るのだろうか?

「大丈夫。行けるさ」

 僕の胸中を察したように、黒猫は自信満々に言い切った。

 途端、凄まじい風が花畑を吹き抜けた。何万、何億という花弁が風にさらわれて宙を舞う。

 もう一度風が吹くと、空中に漂う花びらはまるで意思を持つかのように重なり合い、細い帯となって一本の道筋を示した。

 それは、月へと伸びる道しるべだった。

 繰り返し吹く風に乗って花片が天高く広がる中、その道筋だけは揺らぐことがない。

「これを辿るんだ。心の準備はいい?」
「準備もなにも、どうやってこれを辿ればいいのかが分からないんだけどね……」

 肩を竦めてみせる。それを見て、茶トラが意味ありげに笑った。

「それはな、こうすりゃいいのさ」

 言って、未だに花弁がひらひら揺れる空中へと跳びあがる。

 ジャンプの最高点に達し、茶トラの身体が落下しはじめた時、信じられないことに周りの花びらが茶トラの足元に集まり、足場を作った。

 どういう訳か、茶トラが乗っても足場は崩れない。

「ね、簡単でしょう?」

 白猫が微笑む。

 ああ、そうだった。これは夢。常識なんて必要としないのだ。

 それなら――

 ぐっと身を沈め、あらん限りの力を込めて地面を蹴る。

「うわっ!」

 たった一回の跳躍で何十メートルも跳びあがってしまい、予想外の勢いに驚きの声が口から飛び出た。 すかさず花びらが集まってきて、体重を支えてくれる。

 ほっとした。この高さから落ちたら、ただでは済まないだろう。

「なかなか思い切りがいいね。その調子その調子~」

 下を見て恐々としていると、黒猫が追い付いてきた。茶トラも白猫も空中を跳ね回っている。

「じゃ、行くよ。ちゃんと付いてきてね~」

 黒猫は夜空へと身を躍らせる。僕も後を追って跳んだ。花びらが蹴り上げられ、夜の空にぱっと色鮮やかに映えた。

 体が羽のように軽く、びっくりするくらい自由自在に跳び回ることが出来る。

 一度出来てしまえば躊躇いも恐怖心もすっかり薄れ、跳躍も十回を超える頃には宙返りなどを織り交ぜる余裕さえ出てきた。

 今ならどこまででも昇って行ける気がする。

 頭の片隅にあった嫌な気分も完全に忘れて、夜空を跳び回る。重力に縛られない開放感に酔いしれ、僕は存分に空中散歩を楽しんだ。






 数え切れないほど跳び回り、月が大分近くに見えるようになると、昂った気持ちの隙間にふっと、ある考えが浮かんできた。

 月に着いてしまったら、この楽しい時間も終わってしまうのだろうか。

 もうすでに空と宇宙の境目だ。月がこれほど近くに見えるということは、月への道のりは三分の一も残っていないだろう。

 嫌だな。と思った途端、あれほど浮かれていた気分は萎み、胸のうちにもやもやしたものが広がった。

 足が止まる。

 猫たちは僕の様子がおかしいことに気付き、傍に寄ってきた。

「どうしたのさ?」

 気遣わしげに訊いてくる黒猫。返す言葉に詰まった。言い様のないこの胸のもやもやを、どう表わしたらいいか迷う。それでも何か伝えないと、と口を開いたとき。

 咆哮が夜空に響いた。

「……今のは?」

 動物、それも犬や狼といった類の遠吠えに聞こえた。

「やばいな……」

 茶トラが焦りの混じった呟きを零す。何がと訊く前に、もう一度先ほどの遠吠え。明らかに近付いてきていた。

「逃げましょう」

 白猫が硬い声で促す。そして三度の咆哮。声の主が見えてくる。

 月への道しるべの上を走り、大きな狼に羽と角が生えた動物が、僕たちの後を追いかけてきていた。

 僕の身長の1.5倍はある怪物が花弁の道を踏みしめるたび、道を形作っていた花びらは怪物の爪に切り裂かれ、ばらばらと落下していく。

 あれは何だ?

 突然の事態に硬直していると、黒猫にズボンの裾を引っ張られた。

「早く先に進もう。あれは危険なものだよ」

 茶トラと白猫も神妙な顔で黒猫の言葉に頷く。忠告に従って、僕は怪物に背を向けた。背後から荒々しい咆哮が聞こえる。

 逃げるのか、臆病者め。そう糾弾されている気がした。

 眼前に広がる月へ逃げ込むため、僕は――

「さあ早く」

 黒猫が焦れた声を出す。

 足は動かなかった。

「楽しかったのに……」

 途中まではすごく楽しかったのに、最後がこれ?

 よく分からない怪物に追い立てられて、逃げるためにゴールを目指すなんて。こんな終わり方は、嫌だ。

 楽しかったからこそ、楽しい夢のまま終わりたい。

 そう、これは僕の夢だ。そしてあの怪物は僕自身が生んだもの。だったら、僕がどうにかできない筈がない。

「逃げないの?」

 黒猫が訪ねる。

「逃げないよ」

 僕は答える。

「どうするんだ?」

 茶トラが訪ねる。

「あいつを倒す」

 僕は答える。

「どうしても?」

 白猫が訪ねる。

「どうしても」

 僕は答える。

「分かったよ」
「そこまで言うなら」
「協力しましょう」

 猫たちが僕の目の前に並び、手を頭上に翳す。怪物の姿が徐々に近付いてきた。

 風が巻き起こり、猫たちが翳した手に向かって、花びらが物凄い勢いで引き寄せられていく。ものの数秒で、集まった花びらは一本のバットへと姿を変えた。

 怪物はもう目前だ。

「あの怪物は君の不安や恐れ、そういった後ろ向きな感情の塊さ。あれを倒せるかどうかは君の気持ち次第。僕達には手伝いしか出来ないけど、君はきっと勝てるって信じてるよ」

 そう言って、黒猫はバットを僕へ手渡した。

「僕の気持ち次第……」

 手渡された信頼のかたちを、ぎゅっと握り締める。

 怪物が僕を引き裂こうと飛び掛ってくる。

 こいつが僕の弱気な心だというのなら。

「お前なんかに――」

 僕はバットを静かに引き、

「負けてたまるかっ!!」

 怪物の鼻っ面に思い切り叩き込んだ。

 衝撃で、バットを形作っていた花弁が後方へ飛び散る。

 怪物はものすごい勢いで吹っ飛んでいき、空の彼方へと消えていった。

「いいスイングだったな」

 怪物が飛んでいく様を見送って、茶トラが満足そうに頷いた。

「どうです? すっきりしました?」

 白猫が振り返り、微笑む。

「うん。すっきりした」

 僕も微笑を返す。胸のもやもやは、綺麗さっぱり消え去っていた。

「それは良かった」

 黒猫がぴょいと跳ね、僕の隣に並ぶ。

「それじゃ、行こうか」

 黒猫は月を仰ぎ見て言った。

「そうだね。……行こう」

 そして、僕たちは月へと跳んだ。







 ベッドから起きて、部屋のカーテンを開ける。眩しい朝日に、ぼくは目を細めた。

「うん、いい朝だ」

 今日も頑張ろう。

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