10.暗闇に血は流れる
メイドとアドルフォが出ていって数分後のこと。外から誰かの声が聞こえてきた気がした。聞き間違いとも思えるほど小さな音量だったが、二度・三度と聞こえてきてはもはや聞き逃しようがない。
気になったリチャードは席を立ち、食堂の窓に近づいていった。格子にいくつもの四角いガラス板をはめ込んだガラス窓からは屋敷の前庭の様子が見下ろせる。外は暗闇だが暗視能力のあるリチャードには昼間のようにはっきりと物が見えていた。
若い男がひとり、首に縄を巻かれて手綱を握られている。後ろに垂らされた縄を食事を運んできたメイドと同一人物だろう女が握り、ナイフを突き付けて歩かせていた。屋敷の玄関からもうひとりのメイドとアドルフォが出てくると、男の顔が一層恐怖に引き攣った。
「あれは……」
「無能な下僕の一匹ですよ。客の一人も連れて来られない役立たずを仕置きも兼ねてアドルフォの餌にしているのです」
グラスを片手に隣に並んだケネスが説明する。見下ろすその表情は地面を歩く虫を見ているかのようだった。
客という比喩が何を表すのかは分からないが、あの男はケネスから何らかの指示を受けそれに失敗したらしい。ふと、男の顔に見覚えがあるような気がしたリチャードは、記憶を手繰り彼が眷属化させられた村人の一人であったことに思い至った。エルシーの手伝いをしに行く際に一瞬すれ違った程度だが記憶違いではないだろう。
「頼む! 次はちゃんとやる! だから許してくれ! お願いだ!」
顔面を青く染め、必死に懇願する男に対してメイドの顔には一切の感情が感じられない。彼女は男の膝裏を蹴って膝まづかせると彼の前腕を掴む。男はわずかに抵抗の意思を見せたがナイフの存在のせいか、はたまた彼女の膂力のせいかすぐに諦めた。
「お願いします! やめてください……! やめっ……」
涙を流して弱々しく呟く男の腕を地面に押し付け、メイドは躊躇いなく彼の手のひらにナイフを突き立てた。ぎゃあっという短い悲鳴が男の口から飛び出る。刺された手を抑えようとするその手を、素早く引き抜いたナイフで再び串刺しにするメイド。
「がぁっ……! ぐ……うぅ……!」
苦痛に喘ぐ男の手からは赤い血が流れ、徐々に地面に広がっていった。
「汚い悲鳴だ。酒がまずくなる」
ケネスは眉根を寄せて不快そうに呟く。男が受けた痛みを思い、リチャードは口を噤んだ。
地に赤い染みが広がったころ、アドルフォの鎖を握っていたメイドがそれを手放す。アドルフォはすぐさま地面に溜まった血を舐め始めた。今にも襲いかかってきそうな大型犬を前に、青白く顔を染めた男は頭を抱えて蹲ってしまう。それを二人のメイドは何の情も感じさせない顔で眺めていた。
「よいのですか? あのような扱いをしては折角の眷属が死んでしまうのでは?」
「あの程度で死ぬほど貧弱ではないさ。再生力だけは高くしてあるのでね。それに、死んだら死んだで別に構わんよ。奴隷の一匹や二匹。もしや貴公……」
もはや興味を失ったようにぞんざいな物言いでケネスは席に戻る。ちらりと視線を寄越した彼は僅かに鋭さを増した口調で言った。
「あの男が可哀想だ、などと思っているのかね?」
リチャードの瞳は道徳の欠片さえ存在しない邪悪な行為を写し続ける。
「いいえ。ただ資源を無駄にするのは勿体ないと思っただけです」
「……そうかね。それは失礼をした」
平素と変わらぬ言い方をしたリチャードに心にもない謝罪をするケネスには、僅かに安心したような雰囲気があった。
リチャードは氷のように冷えた瞳で眼下の光景を眺めていた。