13.彼の信条
リチャードとケネスが血の祝杯を挙げてからさらに2日が経った。二階奥の扉の前でリチャードは錠前と鍵が開けられるのを待っていた。
日が昇って3時間かそこらの、吸血鬼にとっては深夜にも近い時間帯。それでもメイドは嫌な顔ひとつせずに仕事をこなす。
どうぞと道を譲られたリチャードはノックをするべきかしばし迷った。うら若きご婦人の部屋にノックもなしに押し入るのには抵抗がある。とはいえ今更礼を重んじてもただの自己満足にすぎない。自由と意思を既に踏みにじっているのだから。
「失礼します」
念の為一声かけてリチャードは扉を開けた。ベッドに腰掛けていた女性が立ち上がるのが目に入る。赤茶のスカートにシャツというラフな格好の女性は、緊張、恐れ、不安がはっきりと映った強張った表情でリチャードのことを見つめている。
「何の用ですか?」
張り詰めた声で尋ねる女性に構わずリチャードは間合いを詰めた。女性は後ずさるがすぐに壁に背中が当たる。必死に目を逸らす彼女の頬を両手で包み、リチャードは命令した。
『眠りなさい』
糸が切れたようにぐったりと倒れる女性を支え、膝裏と背中に腕を回して抱えあげる。そのまま部屋を出て一階へ向かった。
リチャードは始めから彼女と屋敷内で話す気はなかった。これからリチャードのやろうとしていることを説明することなど出来ないし、彼女と交流する気もさらさらない。ただ自分がやるべきと思ったことをするだけだ。
玄関をくぐり庭を横切り、門を出てしばらく歩いたところでリチャードは屋敷を振り返った。監視や尾行の類はない。そう判断したリチャードは予め目印をつけておいた場所から林の中に入った。
目当ての木の前まで来ると、横抱きにしていた女性を肩に担ぎ直す。物のような扱いで気が引けるがそうしなければ用意しておいた布袋を手に持つことが出来ないから仕方がない。
荷物を片手に、女性を肩に、リチャードは駆け出した。ザザザと草花をかき分け馬にも劣らぬ速度で道なき道を走る。両手が使えないので邪魔な枝はかがんだり上体を傾けたりしてかわしていく。それでもそのスピードは目にも止まらぬほどだった。
ものの数分で林の出口まであと少しというところまで到達したリチャードは足を止め、木の根元に女性の上体をもたせかける。
『起きなさい』
催眠を解く言葉を投げかければ、たちまち女性の意識が浮上してきた。
「ここは……?」
女性はきょろきょろと辺りを見回し、リチャードに気付くと驚いて引き攣れた短い悲鳴を上げた。
「静かに。大きな声を出さないでください」
人差し指を口元に当てて言うと、女性は息を飲んで黙った。スカートの裾をぎゅっと掴み、恐怖を堪えるように口を引き結ぶ。
「あなたを開放します」
女性の両手に布袋を持たせてリチャードは続けた。
「食料と水です。3日程度は持つでしょう。立てますか?」
手を差し伸べる。突然の展開になんと言ったらいいのか分からない様子の女性を立ち上がらせ、林の向こうを指し示す。
「あちらに真っ直ぐ進めば20分ほどで街道に出ます。本当はそこまで送っていきたいところですがあまり時間をかけるわけにもいかないので」
女性は明らかに困惑していた。リチャードと彼の指の先を交互に見、ようやく言葉を絞り出す。
「あなたは何者なの? どうして助けてくれるの……?」
「私が誰かは知らなくていいことです。何故助けたかと言えば――」
リチャードの脳裏に過去に聞いた言葉がよぎる。
『他人を助けてやれ。全てとは言わん。無理だからな。だが自分が出来ると思ったらやれ。それがお前のためにもなる』
懐かしい声が耳に蘇る。リチャードが初めに尊敬した《《人間》》の言葉だ。
「それが私の信条だからです」
見つめてくる女性の瞳を見返す。その目にリチャードの本気を見たのか、女性から戸惑いや恐怖の感情が薄れていった。
「そう。そうなのね。名前を……あなたの名前を聞かせてもらってもいいかしら?」
咄嗟に否定の言葉を返そうとしたリチャードだったが、質問に答えないかぎり女性が動かなそうな気配を出していたので困ったように眉尻を下げた。
「リチャードです」
「リチャードね。あなたが何者かは知らないけれど、助けてくれてありがとう。あなたにモアナ様の加護があらんことを」
そう言って女性は身を翻し、林の出口に向かって駆けていった。遠くなる背を見送りながら、リチャードは皮肉げに呟いた。
「モアナ様の加護、か」
人外の自分には一生賜ることが出来ないものだ。ネックレスの黒十字をシャツの胸元から取り出ししばし眺めたあと、リチャードは踵を返してケネスの屋敷へと駆け戻っていった。