短編小説【繰り返し、繰り返す後編『彼女の世界』】

「ねえ、今日って何月何日だっけ?」

「6月15日だよ」

 23度目の質問に、彼は答える。

「そう……」

 そっと呟く。期待していた答えを得られなかったことに、微かな落胆があった。

 私はそのまま、駅の人混みに紛れる。私を見送る彼の視線を感じながら。

 朝のホームには人が溢れていた。





 気が付いたのが何月何日だったのか、正確な日にちは分からない。

 けれど、私は気付いてしまった。この代わり映えのしない日常に。私だけが。

 最初は既視感。デジャヴというやつだった。

 初めてなのに、初めてな気がしない。前にもこんなことがあったような。

 そんな、言ってみれば誰にでもある感覚。

 もちろん、最初のうちはそれほど気にしていなかった。だけど、一日のデジャヴの 回数が両手の数では足りなくなってくると、さすがに意識せざるを得なくなった。

 頻繁に訪れるデジャヴによって、徐々に、私の心には言い知れない不安感が募っていった。

 何かが違う。でも何が違うのか分からない。

 そうして自分や周りの行動に微かな違和感を感じつづけた私は、違和感の正体に、自分の身の回りに起こっている異常に、気付いてしまったのだ。



 23度目の質問をした翌日、電車から押し出された彼が私を見る。

 駅の柱に寄りかかってそれを待っていた私は、24度目の質問を投げかけた。

「ねえ、今日って何月何日だっけ?」

 彼はいつも律儀に答えてくれる。

「6月15日だよ」

 いつも、同じ答えを。

「そう」

 もはや心は動かなかった。返された言葉だけを受け止める。



 何度となく繰り返した期待と、そしてその度に味わう落胆。繰り返す度に、期待は小さく、落胆も同じだけ小さくなった。

 もう変わりはしないのだろうか。人混みに埋もれながら、私は諦めとともに噛みしめる。

 ああ、今日もまた、いつも通りの日常が始まるのだ。

 何ひとつ変わらない日常が。



 登校時間はとっくに過ぎているけど、私は学校には行かない。行ったってしょうがないから。

 制服姿の私がぶらぶらと街を歩いていても、誰も咎めない。だって誰も私に気付かないから。

 周りを歩く人達にとって、私はこの時間、ここにいるはずのない存在なのだ。

 そこにいない者には誰も反応を示さない。示せない。そういう風になっている。

 携帯電話を取り出して時間を確認する。デジタルな数字は午前10時を示していた。

 この時間だと、学校では英語の小テスト中かな、と何気なく考える。

 居眠りしてる坂上君を先生が叩き起こしているころだろうな。

 その場にいなくても分かった。覚えているのだ。飽きるほど見た光景が、自然と脳裏に浮かんだ。

「あ、そうだ」

 思い出そうとしなくても出てくる小テストの解答の数々を頭の隅へと追い払う作業の途中、私は日々の日課をこなしていないことに気が付いた。

 鞄から小さなメモ帳を取り出して、パステルカラーの表紙を捲る。一枚目の紙には、6月16日の日付と、びっしり並べられた私の字。

 これは即席の日記帳。とても大切な、私の心の拠り所だ。

 ぱらぱらとページを飛ばして、白紙のページに辿り着く。私は白い紙の左上に、日付だけを書く。他には何も書かない。

 ぼんやりと、私は記した日付に目を落とした。

 10月22日。今日の本当の日付、だと思う。気付いたのが何月何日か分からないから、あくまで私の感覚では、だけど。

 何度も何度も同じ日を繰り返す中で、このメモ帳だけは過ぎていく時間を感じさせてくれる。私は何も間違っていない、おかしくなんかないと、証明してくれる。

 私が正気を保っていられるのは、この日記と、そして彼のおかげ。




 人のほとんどいない、夕暮れの道。

 何の変哲もない民家と、さして特徴もない公園に挟まれた、実になんてこともない道で、私は彼を待っていた。

 私は彼の名前を知っているし、通う学校も、通学路どころか家まで知っている。

 反対に、彼は私のことを何一つ知らない。知らない、というより、忘れていると言った方が正しいのかもしれない。

 朝の駅のホームで彼と視線が合ったとき、私は泣き出しそうなくらい嬉しかった。誰もが私をいない者として扱う中で、彼だけは私の存在に気付いてくれた。

 事情を話しても信じてはくれなかったけど、それでも、確かな『変化』があったことがなによりも嬉しかった。

 だけど、胸に湧いた希望はすぐに消えた。

 彼が私に気付いた一週間後、彼は私のことを綺麗さっぱり忘れていたのだ。冗談でなく、本気で彼が私のことを忘れてしまったんだと悟ったときの、あの血の気がすぅっと引いていく感覚は、もう二度と味わいたくない。

 諦め切れなかった私は、彼と何度も話をした。そうして分かったことは、彼の記憶が一週間前後でリセットされるということと、私に気付いてさえくれない週もあるということ。前回も、前々回も、私の声は届かなかった。

 今では彼が気付いてくれることを願いつつ、日付を尋ねることしかしていない。

 そして、それも今日で終わり。

 私は今日、この街を出る。

 街を出て、私に気付いてくれる人を探すのだ。

 ここでこうして待っているのは、彼にお別れを言って、私なりのけじめをつけるため。

 心残りがないように。

 ああ、でも最後に一度だけ。彼にあの質問をしてみようか。

 心残りがなくなるように。

 そろそろ、彼が来る時間だ。

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