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死について

 (以下は、翻訳された文章です)

 人生において唯一確実に言えるのは、せいぜい、私たちひとりひとりは死ぬために生まれてきたということだ。いつ、どこで、どのように私たちの旅が終わるのかはわからないーこのただひとつの確実性でさえ不確実性に覆われているのだがー私たちは皆、死に向かう道を旅する者なのである。にもかかわらず、私たちのうち一体何人がこの最終到着点をきちんと見据えて生きているのだろう?私たちは、生活を規定し、そこに表面上の永久性を与えるためにさまざまな習慣をつくりあげる。朝起きて、顔を洗って、毎日決まった時間に食事して、きまったスタイルの服を着て、決まった仲間の輪の中で行動する。私たち一人一人は、それがどんなに壊れやすくても、ある存在のパターンをつくりあげるのだが、それは私たちの限りある人生を一見無限であるかのように見せてくれるものなのだ。

 私たちは死の存在を否定しているわけではない。むしろ、しきりに死について小説で読みたがったり、映画で観たがったりする。そこでは死を安全な距離をおいて経験できるのだ。実際の死にだって耐えることができる。ただし、それは新聞の写真やテレビのニュースなど、自分に差し支えない遠いところに限定されている場合だけだ。事実、私たちは死をたくさん見れば見るほど、何も感じなくなる。死亡者数が多ければ多いほど、彼らが顔のないただの統計の数値になる可能性が大きくなるからだ。私たちは人間であるがゆえに非常に自己中心的で、自分に個人的に関わる人がたった一人亡くなることの方がーあるいは自分の愛する人が死んでしまうかもしれないと考えるだけの方がー自分の知らない人が何人も死ぬことよりもずっと悲しいのだ。

 死は自分には降りかからないことだ。この考えが成立するかぎり、私たちは死の現実を否定できて、自分もまた死の候補者だという事実を無視することができる。「愛しい人」が実際亡くなったときも、私たちは死について直接語ることを避けて、「この世を去った」とか「他界した」などと言う。このような死は厳粛な儀式で囲まれている。それは、私たちの決まりきった習慣をすべてあざ笑うかのようなあの出来事に、習慣のパターンを当てはめようとしたものなのだ。

 幼児死亡率が低く、平均寿命が高い先進諸国に住む私たちは、生身の死からすべての接触を断ちきろうとする。伝統社会においては、長生きすることは栄誉であり、長老者は尊敬される。その一方、私たちは高齢化を社会問題と考え、哀れみと嫌悪感を持って老人のことを考える。若さを崇拝して、整形手術や化粧でシワを隠したり、白髪を染めたりして、若さを保つ方法を探す。死に向かっている人々は病院に閉じ込められるので、死を身近に経験する人は少ない。私自身が見た唯一の死体は父のものだったが、それでさえ自分で選んだから見て、触れたにすぎなかった。

 だが、はたして私たちが逃れたくてたまらない死というもののない人生はそんなに素晴らしいだろうか?時間が限られている今でさえ、私たちはそれを無駄遣いしている。最終しめきり日のない人生で、私たちは一体何を達成できるだろう?もし私たちが自分の死すべき運命ーそして自分のまわりの人びとの死すべき運命ーをもっと意識していたなら、または、明日死ぬかもしれないというように生きることが本当にできたなら、一体誰が美しいものを当然と思い、天気に文句を言い、友人と喧嘩し、やさしいひと言を言わずにいるだろうか?このように常に生きながら死を意識することは、世の中の宗教や哲学の大方の目標であり、聖者や賢者であることを示す心の状態なのだ。

 死を常に意識して人生を過ごせるほど精神の強い人は少ない。でも、もし皆が最低一日一回でも、一秒生きたらそれは二度と戻ってこなく、毎秒が誰かにとって最後の一秒なのだということを思い出せたなら、私たちの生命は死によって変えることができ、一方の確実性が、他方の不確実性を真に意味のあるものにすることができるかもしれないということに気づくかもしれないのだ。

(慶応大・入試問題)

出典『英文読解以前』


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