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ミエナイチカラ

毎日手を合わせることはないけど神さまはきっといる。と思う。先祖が守ってくれる。とかって言う話も、そうだろうなぁと思う。
苦労や苦悩が深いと何かに頼り救われたいと思う気持ちもよくわかる。


元配偶者が亡くなったばかりの頃はあまりに突然で心の整理がつかず、いわゆるスピリチュアルな先生に相談したこともある。

あの方達ってなぜミエルのかなと思いますよね〜

「北側の部屋に重ねて置いてある書類を捨てましょうね」(は、はい)

なぜ来たこともない私の家の間取りがわかるの?

「お庭にあった池を埋めた時、鯉をお寺の池にもっていきましたね、鯉がとても感謝していましたよ」(私は記憶になかったが後日父に確認したら本当だった)

自分も忘れかけてた事や知らなかった事を次々指摘されるとビビりますよね。

でもね〜なんか疑り深い性格と、飽きっぽくていい加減だから、信じる心が続かないのよ。
信じられるものが無くても生きてこれた気楽な人生だっただけ?かもしれないけど。

そして確実に人生後半戦。(あと何年生きるかわかんないけど)稲妻に打たれて天啓を受けたり衝激的な出逢いがあったら変わるかもしれないけれど、ミエナイチカラ関係は『なんとな〜く、信じる』スタンスは変わらないかなぁ。

なんか決めたりする時に御伺いをたてにいくと言う人もいますよね。知り合いの卸問屋の社長さんも大きな事を決める時は必ず!って人います。
『方違え』って平安時代の話だと思ってたけど
その社長はマジでやってて「えーっと俺は来月どこに住んでるんだっけ?」って聞かれた時は「さぁ…?」って答えるしかなかったです。

背中押してくれたり、踏みとどまるきっかけだったり。決断しなければいけない事が大きいほどプレッシャーも大きいでしょうからそのためにも必要なんでしょう。

私は少なくとも人生のサイコロは自分で投げたい派。自分のしてきた事、人生はやっぱり自分で責任持ちたい。もちろん抗えない事もたくさんあるし。思い通りにならない事ばかりの人生だったけど。

それこそ、「え、この投げ方でそこまで転がっていく?」な事もサイコロだから仕方ない。それこそ運命ってやつか。


6月は久しぶりにリアル打合せや会食が多くていろんな人に会いました。

別れ際「またね!」そんなふうに挨拶を交わしながら

「また元気でみんなと会えますように」って自然と心の中で祈っていたのは私だけじゃなかったと思う。




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