見出し画像

母 1 (私・幼少期)

何から書き始めたらいいか、話の糸口はどこからなんだろう、と思案しています。

母の話から、始めてみようと思います。
母は、とにかくプライドが高くて、相当な見栄っ張りな人でした。(まだ存命しています。)
そして虐待する人でした。言葉で傷つけるのは日常茶飯事、叩かれ、外に締め出されたり、物置に閉じ込められたりしました。ご飯を作ってくれないこともありました。
すべて、母の機嫌次第で毎日は進んでいました。
母の気に入るように在らねば何をされるかわからない日々でした。
お風呂で髪を洗われている時も、シャワーの温度が熱くて、「熱い」と訴えても「熱くないでしょ!!」と怒鳴られました。母が温度を確かめてみるようなことは一度もありませんでした。
幼稚園に行くのに、髪を結われている時も、グイグイと力任せに髪を引っ張られ「痛い」と声に出しても、イライラしながら「痛くないでしょ!!」と逆に責められました。
「お前は田んぼの隅っこで拾ったんだ」という言葉を本当に私は信じていました。だからこんな扱いをされるんだと思っていました。

母は常に人の悪口を言っている人でした。親戚の人、近所の人、とにかくいつも誰かを否定し非難していました。私もそのターゲットの一人でした。いつでも母は絶対悪くなくて、他の人(私も含めて)が裁かれました。小さなミスをすれば、必ずお盆やお正月におばあちゃん家に行った際、何重もの尾鰭をつけて親戚中の前で晒しあげられました。あまりにも母が悪くいうので、親戚の人たちも、私のことをダメな子だと思うようになっていきました。
私の居場所はどこにもありませんでした。当時、養護施設やシェルターのようなものは存在していませんでした。虐待という言葉もありませんでした。そして世間的に、親が子を叩いても当たり前、という風潮がありました。
家は私にとって、護られる場所ではありませんでした。

生まれてからずっと、母は私や兄や妹の着る物を手作りしていました。それは一見すると愛情行為に見えるかもしれませんが、そうではありません。母はかなりの吝嗇家で、市販品の服を買ってくれなかっただけなのです。そして手作りは母の独りよがりの自己満足の世界でした。毛糸や生地は母が若い頃に買い集めた古いもので、型も昔に出版された、時が止まったようなデザインでした。使われていたボタンも(私も洋裁を少しやるのでわかるのですが、ボタンは買うとけっこう高価です)母が昔着ていた服から外して取っておいた物を再利用していました。
私はよく幼稚園で、「◯ちゃんの服、変なの」と言われました。私だって、みんなが着ているような服を着たかった。アニメのキャラクターがプリントされている服が欲しかった。でもそれは母には決して言えないことでした。ひとつ着る物が出来上がると、「可愛いでしょ、着なさい」と強制されました。クラスで私がみんなからどんな目で見られているか、母は知ろうともしていませんでした。「夜なべして作ってあげたんだから」そう押し付けられました。

食事も、満足な量が提供されませんでした。
父が真っ先に1番大きく量を取り、残った料理を私たち兄妹は分け合わなければなりませんでした。でも私たちで分けてしまうと今度は母の分がありません。私たちは母の分量が残るように食事を取り分けていました。結果、母は「お前たちは食べないんだから」と言って、もっと少量の食事を出すようになりました。悪循環です。私たちは痩せて発育の悪い子どもになっていきました。

母がそこまでしてお金を使わなかったのには、理由がありました。
母は、私たちの入学式や卒業式に自分が着る着物を買うために節約の限りを尽くしていたのです。
父が新しい着物を見て、「それ、どうしたの」と尋ねた際、母は頑として「なぁに!?買っちゃいけないの!?」と噛み付きました。
着物は決して安い買い物ではありません。子どもの私でもわかることでした。母は常に自分が優先だったのです。

私は常に萎縮していました。母の顔色を伺って、どうすれば怒られないか、そればかりをいつも気にしていました。
ひどい母親でしたが、多くの子がそうであるように、私も、そんな母でも慕い、ついていこうとしていました。
いつのまにか、私は知らないうちに、母の真似をするようになっていました。母と同じ目線で、母と同じ行動をして、母と同じような差別をするようになっていきました。

今日は、ここまでにします。
また明日。
読んでくださってありがとうございました。
おやすみなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?