【コギトの本棚・エッセイ】 「AI」
先日、ご飯を食べながら七時のNHKニュースを見ていたらこんな話題に出くわしました。
「心を持ったAIロボット」、なんでも人の感情を察し喜怒哀楽の『仕草』を表現するロボットが発売されるのだとか。確かに、ニュース映像の中でそのロボットは、人間が笑えば、搭載されたカメラがその表情を読み取り、喜んだ『仕草』をしたり、反対に無表情だとじゃれついてきたりする『仕草』を表現していました。
先に断っておくと僕には情報工学的な知識がまったくありません。アルゴリズムだとか言われても「はに丸王子」よろしく「はにゃ」っとなります。
でも一応人間なので、しかもそこそこの年数を生きたおじさんなので、人間の感情についてはロボットより一日の長があるような気がしています。そして老婆心ながら、このロボットに一言付しておくとするなら、「人間の感情はそんな単純なもんじゃねえぞ」ってところでしょうか。
人間同士、片方が笑えば、もう片方が笑ってくれると考えてるうちは、はっきり言って人間としてまだだいぶ半人前なのだという僕の意見に、一人前の人間なら大方賛成してくれると思います。
だって、子供の笑い声は未来の希望を感じさせる最高に喜ばしいもののはずなのに、中には、子供の笑い声がうるさく感じる人間たちだっているのです。
ちなみに僕は子供の笑い声がうるさいと幼稚園にクレームをつけるような人間が、彼の望み通り、子供の笑いを止めさせることができて、嬉しくて笑っても、到底その人に笑顔を見せられません、いや笑顔どころか、「おい、この野郎」と怒りをあらわにするでしょう。
AIロボットのニュースには続きがありました。
時代はなにはともあれ『AI』だそうです。
駅構内などに設置するためのモニター式ビルボードにAIを組み込み、搭載されたカメラが道行く人の顔を認識し、その人にマッチした広告を表示する技術をゆくゆくは大手の広告会社が採用するかもしれないとのこと。
例えば、ひげを生やした人が通りかかると、シェービングクリームの商品広告が表示されたり……、って、僕はこれを見て思わず「なに言ってんだ」と、まさに噴飯ものでした。
このAIを考えた技術者とそれを採用した広告マンはおそらくモグリです。いや、「このAIすげー、採用!」って、広告会社の誰もが言ってるんだとしたら、日本の広告はヤベーです。
だって、ひげを生やした人にシェービングクリームは必要ないですもん、生やしてるんだから。本当にシェービングクリームを必要としている人は、毎日ひげを剃る人でしょうが。
こんなこと書いておきながら、あれなんですが、僕はこれでも意外に進歩的な人間だと自分では思っています。
昨今よく言われる、将来AIが人間の仕事を担っていく、もしくは奪っていくという期待と不安については、はっきり言ってどんどんやれと思ったりします。
今の坂本龍一はどうかと思いますが、かつての彼のことを僕はそこそこ尊敬していまして、彼がたしかこんなことを言っていました。
「科学技術は後退しない」
まさに僕もそう思います。今の左翼はこういう唯物史観というか進歩主義をもう一度思い出すべきだとか思ったりしますが、まあとにかく、良きにつけ悪しきにつけ科学技術は進歩し続けるということは自明です。
それを必要以上に悲観したり楽観したりすることはナンセンスです。ただまさに「科学技術は後退しない」という事実があるだけなんですから。
人間は進歩のよい部分を享受すればよい、それだけです。悪い部分はその都度パッチを当てればいい。はるか昔から人間は科学技術に対しそのように対処してきたし、これからもそうするしかない、そう思います。それで(そんなことないとは思いますが万が一)科学技術の暴走によって人間が絶滅するなら、まあ、しょうがないじゃないですか。
今もって常に話題になっている将棋の世界も、一足早くこのAIの波を経験しました。
人間対人工知能ではほぼ人工知能の圧勝という時代になりました。
それで将棋がダメになったかというと、全然そんなことはありません。人工知能は人間の棋力をはるかにしのぎましたが、今もって人間対人間の対局はエキサイティングで観客を楽しませてくれています。
まあ、当り前っちゃ当り前のことです。
だって、例えば、車と陸上選手を競わせたりしないでしょう、それに力士とブルドーザーを対戦させようなんて誰も考えませんよね。
でも、車が発明されたばかりのころには、もしかしたら陸上選手と競わせるというアホな考えを持つ人間も出ていたかもしれません。
なぜそんな考えを持ったりするのかというと、新たな科学技術に対し、人間はすぐに正しい評価を下せないからだと僕は考えます。
ようは科学技術は人間の思考にいつも先んじるということです。冒頭に出した二つニュースなんかいい例です。AIをくさしたような物言いをしましたが、実は人間の思考がAIという新たな科学技術に追いついていないだけの話。
でも、大方の人々はそのことを認めたがらない傾向にあるような気がします。いや、認めたがらないというより、気付いてないんだろうな。そういう人に限って、科学技術を礼賛し、哲学的アプローチを軽んじます。
でも、新たな工学的技術が人間に何をもたらすか、その答えを導く方法はいつも哲学や思想なのです。
例えば、産業革命が人間に何をもたらしたか。それは、科学技術哲学的に言えば、「余暇」です。(この先にもっと遠大な哲学的考察があるのですが、まあここでは割愛して)、この評価はおよそ哲学的な成果だと思います。この成果なしに人間は科学技術を正しく使えるなどと思わない方がよいのです。
時代は産業革命のころとは比べ物にならないほどの目まぐるしいスピードで日夜科学技術が進歩している世界に突入しています。
哲学がそのスピードに追い付かないのもわからないでもないのですが、少なくとも僕たちはあらためて科学技術と哲学はワンセットだと思い返す必要があると思います。
そうしないと、ひげを生やしている人にシェービングクリームを売りつけようとするような素っ頓狂な人間がますます増えることになってしまうからです。
いながききよたか【Archive】2017.07.13