【コギトの本棚・エッセイ】 「反唯知論」


本題に入る前に、四週に渡ってお送りした
入江悠監督のインタビュー、いかがでしたでしょうか?
取り留めもない質問ばかりぶつけてしまったのですが、
どんな質問にも真摯に答えてくださった監督に感謝します。
映画『日々ロック』ぜひ、劇場で、ごらんくださいね。

さてさて、映画にまつわる名言はいろいろありますが、
中でも強烈だなぁと思ったのは、
『売れた映画がいい映画』という言葉です。
なんでも、東映の会長にして日本映画界のドン、
岡田茂さんの言葉だそうです。(記憶違いだったら、すいません)
この言葉を聞くと、僕は胸がすく思いがします。
聞いた感じはいかにも作家性の否定みたいですが、
実は違いますよね。
大衆に迎合しようが、作家性の強い難解な映画だろうが、
映画は映画、ようは売れればいいと。
つまり、俺イズム満開で映画を作っている作家たちにも
逃げ道を残しているわけです。
いやぁ、さすがドンです。含蓄があります。
しかし、しかしです。一抹の忘れもの感があることも否めません。
資本主義の原則、つまりポピュリズムにのっとってしか、
『知』というものは、残らないのかと
アオくも切実な疑問を抱いてしまいます。

僕は地方の私大に通っていました。
東海地方では、まあまあ偏差値が高い大学ですが、
全国的に見れば、たかがしれている大学です。
(こんなこと言うと、母校に怒られそうですが……)、
その時のお話をしたいと思います。
僕が所属していたのは、文学部仏語仏文学科でした。
文学部ほど世の中で役に立たない学問もないわけですが、
まあ、ひとまずそれは置いておいて、
入学当初、仏文科の教室には、
いわゆるフランス憧れを抱いた女子たちが
ひしめき合っていたのでした。
(50人ほどの学生のなか、男子はなんと6人!まさにハーレム)
確か『フランス文化』という授業だったと思いますが、
授業開始を待つ学生たちの前に現れたのは、
なんとなくエスプリを感じさせる壮年の女性教授、
そして彼女は開口一番、
「貴方達が抱いているフランスのイメージは間違いです」
と言い切りました。
そして彼女は、そこから延々、
学生達が抱いている「おフランス」のイメージを
叩きこわしていったのです。
「シャネルは帽子屋さん、エルメスは馬具屋さん、
しかも、そういう高級ブランドは貴族商売で、
一般庶民にはなんら関係がない」、
「自由と平等と友愛を愛する穏やかな国民性なんてのは幻想、
ほとんどのフランス人はおおむね排外的で理屈屋で
議論好きというややこしい国民」、
「お洒落で理想が高い『おフランス』はパリの一部だけに
あるのであって、フランスという国自体は農業で
成り立っているヨーロッパの田舎」などなど。
まくしたてる女性教授を前に学生達はあっけに取られていました。
おまけに、彼女の言葉はやがて学生たちの人格にまで及びました。
彼女は、フランス文学の女性研究者だけあって、
いわゆるフェミニストだったと思うのですが、
フェミニストだからと言って、男性に厳しく、
女性に優しいわけではありません。むしろその逆でした。
「あなたたちがふがいないから、女が甘えるのよ」と
非難が男子学生に向けられたのもつかの間、
あとは延々と女子学生の人格否定です。
「大学に入ったのに、大して勉強もせずに、
スポイルされたまま大人になって社会に出て行くもんだから、
あんたたち女は一生バカのままなのよ。
女だからってちやほやする社会も悪いが、
ちやほやされていい気になってるあんたたちが
一番悪い」などなど。
女子学生たちが持つ「夢のおフランス」どころか、
花の女子大生生活そのものを否定され、
テンションがた落ち、男の僕がドン引きだったくらいなので、
彼女らにしてみれば推して知るべしです。
ひきつった笑顔を浮かべたまま、女子学生達は帰って行きました。
のっけの授業からこんな調子だったので、
すぐにその女性教授は女子学生たちから
かなり嫌われてしまいました。
しかしながら、大学生活を送っていくにつれ、
我々は、この女性教授を見直していきます。
最終的には、人気、とまではいかないまでも、
尊敬の念を誰もが抱くようになりました。
なぜなら、そんな暴言を言うには言うだけの説得力と
真摯な研究姿勢が彼女にはあったからです。

彼女の研究対象は「フランス・バロック小説」というものでした。
ちなみに「フランス・バロック小説」という分野は、
日本において、(おそらく世界でも)、
馴染みのあるものではありません。
なぜなら研究者が彼女しかいないからでした。
17世紀前半から中盤、フランスにおいて
とても変な小説が流行したといいます。
その小説群の特徴は「おそろしく長いこと」
(一応世界で一番長い小説はプルーストの
「失われた時を求めて」と言われていますが、
代表的フランス・バロック小説「ル・グラン・シリュス」は
そのおよそ2倍、なんと210万ワード!)、
「めちゃくちゃ荒唐無稽なこと」、
「主人公は、イケメンと美女、しかも高貴であること」、
「絶対ハッピーエンドであること」だそうです。
これらの小説群は、当時めちゃくちゃ流行ったにも関わらず、
かつ文学史的に見ておそらく潮流の一つをなしたにも関わらず、
その後駄作の烙印を押され、ぱったりと姿を消し、
やがて誰にも顧みられることがなくなりました。
彼女は、大学の仏文科に進むと17世紀文学を
研究し始めました。
卒業論文はラファイエット夫人だったそうです。
そのラファイエット夫人の小説の中に、
一遍だけ一笑に付された駄作があり、
しかしながら、駄作と評価されていたにも関わらず、
彼女はこれが気に入り、一生の研究対象にしてしまいました。
とりもなおさず、このラファイエット夫人の『ザイード』が
後期フランス・バロック小説だったのです。
彼女は、その後、パリに渡りました。
パリ第四大学(いわゆるソルボンヌですね)で
博士論文を書くために、「フランス・バロック小説」を
読み始めるのです。
なにしろ長大なので、読むのに苦労します。
しかも、原本はパリ国立図書館にしかありません。
そこで、彼女は来る日も来る日も図書館に通い、
それこそ腰の骨が文字通り曲がってしまうまで、
この「フランス・バロック小説」を片っ端から
読破していったそうです。

そこで、僕は想像するのです。
もし、彼女がいなければ、日本において
「フランス・バロック小説」というジャンルは
全く顧みられなかっただろう、と。
別に文学的にも価値が低い、取るに足らない小説群だから
別に顧みられなくてもいいと言えば、
そう言えなくもないかもしれません。
ですが、よくよく研究してみると、
「フランス・バロック小説」には、
その前夜に隆盛したルネッサンスと
その後興る古典主義とを結ぶ文学的価値があるといいます。
ポピュラリティが低くても知るべき分野だったと言えるでしょう。

さて、そこで、始めの言葉に立ち返ってみたいと思います。
「売れた作品がいい作品」
確かにそうでしょう。けれども、こうも言えます。
「売れなかった作品が、悪い作品かと言うと、そうでもない」
言葉的に歯切れが悪いですが、こちらも事実です。
人口に膾炙されるものが『知』のすべてではないと、
僕は最近よく思います。
それどころか、研究や『知』の欲望の対象には、
売れるか売れないかは(資本主義/ポピュラリティ)
あまり関係がないとさえ思います。
「フランス・バロック小説」のように、
研究者がたった一人しかいないし、
ほとんどの人が知らないし、
読もうとも思わないような作品群だって、
存在はしているし、無価値ではないし、
知るに値しないということは絶対にないということです。
もっと言えばこういうことかもしれません。
僕たちが、普段なにげなく送る日常において、
見たり聞いたり知ったりすることができる事柄は、
すべて「売れた」ものであると。
よくよく考えれば自明ですよね。
僕たち(消費者)が手に取ることができるのは、
売ることにおいて価値があるものだけであり、
作品的に価値があるものとは限りません。
もう一度言いますが、売れているものは素晴らしい、
そして、同時に売れていないものの中にも
素晴らしいものがあるという意識を、
いつも忘れないでいたいと思うのです。

ちなみに、タイトルの『反唯知論』なんて言葉は
存在しません。なんとなく、書いてみました。
知っていること/知ることができることだけが、
すべてじゃないよってなくらいの意味だと
受け取ってもらえると幸いです。
これは、他人への提言というよりは、自分への戒めです。

いながききよたか【Archive】2014.11.27


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