【コギトの本棚・エッセイ】 「今対昔」
このところずっとシナリオを書いております。
幸せなことです。誰かからシナリオを書いてほしいと思われるこ
とが、ライターにとっては一番の幸せです。
ただ、先月は非常に苦労しました。執筆意欲は上々だったのです
が、体調が……。
突如背中痛に悩まされ、文字通り首が回らなくなり、腕を伸ばし
てキーボードを打つことからして痛い始末、整形外科へ駆け込ん
だのですが、原因は不明、あやうく痛み止め注射でお茶を濁され
そうになり、それは固辞して、ただ時が経つのを待っていました。
少し痛みがとれてきたと思ったら、今度は、ムスコちゃんからウ
ツされた風邪。この風邪、熱は出ないのですが、喉にクる系のヤ
ツで、コンコラコンコラ咳が出て苦しい、なんとか抗生剤を飲み
つつパソコンに向かっていました。
まあ、あれですね、あえて気付かないようにしてはいますが、い
つのまにか自分もアラフォー、寄る年波にはなんとやらというや
つでしょうか。
シナリオを書いていると、困るのが映画館になかなか行けないこ
とです。別に行きゃあいいんでしょうけど、なんか、椅子に根っ
子が生えちゃうんですよね、それでも、やっぱりパチパチキーボ
ード打つだけでは、生活が物足りない。ついつい本に手が伸びた
りします。
薄給ゆえに思うような本が購入できないため、気休めに二週間に
一度、図書館に通っている僕ですが、先日、こんな本を手に取り
ました。
講談社版「中国の歴史」全12巻です。
アベシュショーの狙い通りすでにコロッと忘れられている感のあ
る安保法案騒動ですが、なんですか? 聞くところによると中国
が、仮想敵だとかなんとか? でも、そんなことは知ったこっち
ゃありません、僕は中国、大好きですね。(行ったことないけど)
だって、少年時代、胸躍らせた活劇といえば、ほとんど中国モノ
じゃないですか。「三国志」、「水滸伝」、「西遊記」などなど。
それは、アラフォーになった今も変わってません、今年に入って
また性懲りもなく、「キングダム」を読み始め、再度中国熱が高
まったところで、いよいよこの講談社版「中国の歴史」を手に取
った次第。
知ってました? 余談ですけど、日本の中国エキスパートたちが
書いてるこのシリーズ、先年、中国訳が出まして、中国本国でベ
ストセラーになったそうな。
考えてみれば、妙な話ですね、現在の中華人民共和国に至っても
「史記」から連綿と続いている由緒正しき紀伝体歴史書を編纂し
ているというのに、日本で出版された歴史書がベストセラーにな
るなんて。
まあ、「愛国無罪」なんて言葉に代表されるように、当局によっ
て今も昔も歴史がゆがめているという事実を大衆がよくわきまえ
ている証拠なのかもしれません、当局が必死に統制しているにも
関わらず、実は大衆は客観的な歴史観を欲している、というあた
りが、中国っぽいというか、たくましさかなぁと思う次第。
逆に、昨今の日本を考えると、まさしく「愛国無罪」を地で行く
ような、そしてまったくそのことに疑念を抱いていないような、
おかしな事態になっているようで、最近ものすごく違和感。連日、
テレビから流れてくる「日本ゴイスー」的番組オンパレードを眺
めていると、反対に中国で書かれた日本の客観的な歴史が、現在
の日本で売れるような事態が来るとは到底思えません。
さてさて、この「中国の歴史」第一巻「神話から歴史へ」を手に
取ったのは、そもそも、堯瞬からさかのぼる三皇五帝の神話時代、
実際歴史はどのように動いていたかということに、にわかに興味
が湧いたからでした。
歴史書は、それを編纂した王朝に都合よく書かれているものです
から、そこから零れ落ちた事実というものを残していないという
ことは、だいたいお察しの通りですが、古代ともなると、まだ人
間が言葉も獲得していない始末なので、ようは考古学的アプロー
チでしか、歴史に接近できません。
でも、例えば日本なら縄文・弥生時代とか、中国なら夏王朝以前
とか、実際なにがどうなっていたのか考えるのってすごくロマン
がありませんか。一体、ヒトがどんな風に社会を形成していった
かの萌芽がそこにあるような気がします。
この本をひもといてみると、まさに中国史という意味だけにとど
まらず、中国という空間的場所におけるヒトの歴史が事細かに書
いてあります。
アフリカに誕生したヒトが、いつごろ、どのようにアジアに到達
したかに始まり、いかに文明を獲得し、いかに権力が生まれてい
ったのか、その過程が科学的なアプローチで語られるわけです。
最高にエキサイティングですねぇ。
ところで先史におけるヒトのテーマは、中国だけに限らず、ほと
んどが、食料をいかに獲得し、安定した生活を維持するかだった
といっても過言ではありません。まずは安定した暮らしが無けれ
ば、人間らしい社会を形成することが困難です。
そこで、ちょいと気になりググってみたんですが、先史時代のヒ
トの平均寿命って、わずか15歳未満ほどだったそうです。平均
寿命の算出にはカラクリがあるので、こんなわけのわからない数
字になるわけですが、それにしても、ヒトがボンボン死ぬ世の中
だったことには変わりないだろうと思います。
世代のサイクルを考えると、端的に言って、現在よりも、二倍以
上早かったのではないでしょうか。現代感覚で言えば、命を実験
しながら、なんとか安定を獲得しようと努めていたに違いありま
せん。そして、そんな命の価値が低い時代だったからこそ、長生
きは悲願だったのではないでしょうか。
でも、最近、僕は少し違和感を抱くことがあります。古代のヒト
と、現代の文明人をおんなじ土俵で比較するのはナンセンスなは
ずなのですが、それを一緒くたにしてしまって、さまざまな局面
で、昔はよかった式の「文明批判」が散見されることについてで
す。
例えば、食に関して、なにかとコンビニ弁当やマクドナルドなど
は忌み嫌われてます。(まあ、確かに体に悪いのかもしれません
けど)
でも、それが行き過ぎて、「昔は、ナチュラルなものを食べてい
たから、長生きだった、いい時代だった、だから、僕たちわたし
たちも昔の食生活を思い出そう」なんていう文脈が出現してます。
いやいやいや、ナチュラルなもの食ってた時代の平均寿命、15
歳以下ですから。
食以外でも、医療や生活スタイルや学術に至るまで、なにかと文
明批判が正義っぽい感じで語られたりするのですが、これはちょ
っと違和感ですね。
だって、きっと、死んでも長生きしたかった昔のヒトたちが今の
社会を見たら、全力で羨ましがると思うんですよ。好きなもの食
って、文明を享受して、それで結局70、80まで生きるんです
から。
それなのに、時として今の人間は、昔を全力で羨ましがる傾向が
あります。まさに逆転現象、なんだか、うまくいかないものです
ね。
それは、ひとえに社会が規定する命の価値に起因するからなのか
もしれません。
昔は死んでもともとって感じだったでしょう。でも、今は命の価
値のハードルが高すぎて、上記のように、おかしなことになって
ます。
いや、なにも、別に、もっと命の価値を落としましょうと言いた
いわけでは決してありません。
命、大事、これ大前提。
でも、命、大事すぎて、考えすぎちゃって、逆に、それ命粗末に
してることになってません?ってことです。
先史時代だったら、もう十分晩年であろうアラフォーの、シナリ
オを書かなくてはいけないのに、背中痛と風邪に悩まされながら、
歴史書に逃避していた僕は、最近、こんな昔のことに思いをはせ
ていたわけです。
さて、風邪も治ったことだし、シナリオ執筆に戻りますか。
いながききよたか【Archive】2015.10.08