コギオト2公演ブログ④『青い栞を人生論ノートに挟んで』
文章を書く、ということは決して簡単なことではありません。劇団コギトという演劇サークルに入り、まさか定期的にブログを書くことになるとは!と思った団員も少なくないかもしれません。
舞台に立って声を発する役者にそれぞれの個性がみえるように、ブログの文章にも人柄や色が映し出される。こんなことを編集を進める傍ら考えておりました。読者の皆様には、ブログから発せられる団員たちの「声」を感じ取っていただけたら幸いです。
本日のブログは、今公演で総合演出を務める、滝澤諒(一橋・3年)が担当します。ひねくれものでかわいくない彼の性格に日々振り回されてはおりますが、彼の書く文章にはなんだか惹きつけられてしまいます。
彼がどんな歌詞について語るのか、そしてなにを思い、この公演を作り上げるのか。どうぞ最後までお付き合いください。
↑今では脚本・演出として頭角を現しているが、舞台美術の腕もピカイチ!う~ん、憎い!!
先日、丸の内線に乗っているとドヤドヤと小学生たちが乗り込んできた。制服を着ていたから、きっと私立の子達なのだと思う。お金持ちの子供なんだから礼儀作法がなっているかといえば勿論そんなことはなくて、うるさいのなんの。大声で叫ぶわ、走行中なのに頻繁に席を立つわ、鬱陶しいことこの上ない。綺麗なほっぺたを一発、引っ叩いてやりたくなった。大人は怖いんだぞ。
でもそれと同時に、少し彼らのことを羨ましく感じたのもまた事実だった。周りの目を気にしないでいることは、この年齢になると流石に難しい。大学に入ってますます気を遣うことが増えて、自分の「やりたい!」という欲求に素直に従うことを忘れてしまって、もはや自分が本当にやりたいことが何なのかすら見失いかけているような気すらしている。
こういう時、ついつい「子供のころに戻りてえなあ(鼻ホジ)」と思ってしまう。こんなことを言うと、「子供時代を過度に美化している」と批判されてしまうかもしれないけれど。確かに子供は思っているよりも汚いし、臭いし、残酷だし、馬鹿で、そのくせ自分じゃなにもできなくて、どうしようもない。自分の子供時代を思い返してみても、ファミレスでジュースを混ぜまくったり、気に入らない先生の授業でシャーペンをカチカチいわせまくって授業を妨害したり、碌でもないやつだった気がする。大人は汚いし、子供も汚い。
それでも、と思う。やっぱり子供時代は特別だし、そうであって欲しいと。
前置きが長くなりすぎたので、そろそろ好きな歌詞を紹介したい。Galileo Galileiの『青い栞』から。有名どころでスマン。(МVはこちら)
海を見渡す坂をかけのぼって/こわいくらいに青い空と/右手にサイダー/左手はずっと君を探している/そうやって塞いだ両の手で/抱きしめている春の風/まだ時間は僕らのもので/「いつか忘れてしまう今日だね」なんて言わないでほしいよ (青い栞 作詞:尾崎雄貴)
ガッツリ引用してみた。この曲は名作アニメ「あの花」こと「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。」の主題歌だから、知っている人も多いかもしれない。僕はアニメ・映画の名作を観漁っていた時期(大2)にこの作品に出会って、当然アニメ自体も良かったのだけどそれは名作って言われてるんだから当たり前の話で、どちらかと言えば偶然出会ったこの曲に強く惹かれてしまった。
↑「あの花」でお馴染みの感動アニメ。
好きな曲は数あれど、今回の新歓公演のテーマが「詩」ということで、この曲を選んでみた。Galileo Galileiの曲は詞が良いと個人的に思っていて、この曲は特にそれが現れているなと感じたからだ。
良いなと思った理由?そんなの歌詞見ればわかるでしょうが!!と言いたいところだけど、一つ挙げるとすれば「右手にサイダー」という部分。ワードセンスが巧みすぎる。曲の解釈は人によって分かれるけれど、この歌は子供時代を懐かしんでいる情景を表している、と勝手に僕は思っている。子供時代に関する文章とか昔のことを書こうとする時、僕たちはついつい「子供の頃は」とか「昔は」といったありきたりな言葉を使ってしまう。実際、この記事の冒頭でも既に使ってしまっているし。そこを作詞の尾崎さんは「右手にサイダー」という言葉で表現した。直接的な説明ではないけれど「サイダー片手に手を繋いで坂を駆け登る」というのは明らかに子供のすることだと解釈できるし、儚さとか空の青さが質感を伴って脳内再生される表現だと思う。説明しすぎない美ってあるんだよね、やっぱり。
「こわい」「くらい」「青い」というaiの韻の繰り返しが気持ち良かったり、実は曲の中に形容詞がこの部分の「青い」しかなくて、より空の青さを強調しているというのもこの歌詞を選んだ理由ではあるのだけれど、やっぱり説明しすぎないけど伝わる美しさが一番大きい。
ところで、『青い栞』は聴いていると物凄く感傷的な気分になってしまう。感傷といえば、哲学者の三木清が面白いことを言っているので、引用してみる。
私は動きながら喜ぶことができる、喜びは私の運動を活潑にしさえするであろう。私は動きながら怒ることができる、怒は私の運動を激烈にしさえするであろう。しかるに感傷の場合、私は立ち停まる、少くとも静止に近い状態が私に必要であるように思われる。 (三木清 『人生論ノート』)
つまり、感傷は止まっている時に初めて味わえる感情だということ。さっき僕が『青い栞』を「子供時代を懐かしんでいる」曲であると断定した理由の一つがこれ。曲全体は感傷に満ち満ちているのに、出てくる子供たちは活発に走り回っている。動いている子供たちが感傷に浸ることは無いだろうから、過去の回想なんじゃないかなと思った。
よく考えてみると、作詞家とか詩人って例外はあるにしても、すごく感傷的な人が多いんじゃないだろうか。萩原朔太郎とか中原中也の詩を読んでいると、この人たちは普段から空想に耽ってぼんやりしてるんだろうな、と思う。
そして空想する時、人は「静止して」いる。
思うに、現代は「静止する」ということが非常に難しい時代になっている気がする。小学生から塾に通い(僕が会った子たちは幼稚園から塾に通っていたのかも)、受験し、中高に合格してもそこで大学のための受験勉強をし、気がついたら年齢だけ大人になってしまっていた。今だって卒業のために単位を集め、就職のために経験を積もうとしたり資格を取ろうとしたりとみんな頑張っている。頑張り続けないと落ちこぼれてしまうし、落ちこぼれてしまっても誰も助けてくれないからだ。何もしないでいると、怠け者だと後ろ指を指されてしまう。立ち止まることが、ぼんやりとすることが、空想することが余りにも蔑ろにされてはいないか。そして空想の代わりに多くの人たちが心の支えにしているのは「娯楽」である。
三木清は次のようにも言っている。
娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代りに考え出したものである。(中略)生活を苦痛としてのみ感じる人間は生活の他のものとして娯楽を求めるが、その娯楽というのは(近代的生活と)同じように非人間的であるのほかない。 (同著)
日々の生活を楽しめないのは、あくせくと働いていて色々なことを見落としてしまっているから。そして働いている人たちの多くは労働を苦痛に感じていて、そこから逃避するためにウマ娘とかをやっている(ウマ娘が悪いわけではない)。サイダーの代わりにスマホを握っていると。まるで昔のインディアンがコカの葉を噛んで鉱山での重労働を耐え忍んだように、僕もいずれ何らかの娯楽に依存することで日々の労働を耐え忍ぶことになるんだと思う。それでも、時々立ち止まって辺りを見渡してみたい。立ち止まって、小さな美しいものを見つけるのが詩人の目である。Galieo Galileiの詞はまさに感傷に浸ることによって日常の美しさを切り取った良い例ではないだろうか。僕も詩人にはなれないとしても、せめて目を凝らすくらいのことは続けていきたい。空想したいし、文章も書き続けたい。子供時代を振り返って感傷に浸るのも、もし多少それが理想で塗り替えられていたとしても、それはそれで悪いことじゃないんじゃないかと思う。
新入生に伝えたいことは、「頑張るのもいいけど時々立ち止まってみたらどうでしょう」ということ。これっぽっちのことを書くのにどんだけ字数を割いたんだ。就活が嫌すぎて壮大な愚痴を書いてしまった。大学3年生っていうのはそういうもんです。
(編注)
ひとつひとつのセリフで立ち止まり、考えてみる。振り返ってみると、演劇の稽古とは、そんな作業の繰り返しのような気がします。私たちが見つけた「小さな美しさ」の結晶を、ぜひお楽しみください!
劇団コギト2021年度新歓公演『コギオト2』は5月26日配信スタート
お見逃しなく!!