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「行きつ戻りつ」(2020年度卒業公演インタビュー企画特番)前編

 こんにちは。劇団コギトのnoteをご覧くださり、ありがとうございます。今日で2020年度卒業公演も千秋楽を迎えます。他の記事でもちらほらと書かせていただいたように、今回の卒業公演は独特の形態を取って進められてきました。その一環に、演出さんが全てを決定するのではなく、座組全員で考え、話し合い、選択していく、という目標がありました。役者さんもスタッフさんも、本読みや稽古を通して、現実の誰かが語った言葉を、自分の語りに置き換え、日記や円居で座組全体に向けて語っていき、最終的には作品を観ていただいた人にまで語りを広げていく。語りが連綿と続いていく中で、深い交流が生まれている様子が、傍から見ている広報担当にも伝わってきました。。

しかし、

まだ、十分に語りきっていないという人が実はいるのではないか…??ふとそんなことを思いつき、座組メンバーのリストを確認していたところ、とある人の名前が目に留まりました。「あれ、そういえば円居参加者で案外、沈黙の時間が長いのはこの方なのでは?」それは、たまたま広報担当が個人的にいつかゆっくりお話してみたい、と考えていた人でもありました。これはチャンスだ…!!ということで、今公演のインタビュー企画、広報担当による個人的ダメ押しの最終回は、この方にお越しいただきます!それでは、

Let me welcome…… 岡澤由佳(演出)さん!

~それでは始めます!よろしくお願いします~

岡澤:はい!ありがとうございます。

—―実は去年の卒業公演のバラシ(片付け)の日に、ゆかさんがかけていた曲がすごく、個人的に好きなやつが被っていて、いつかご卒業される前に、好きな曲の話できたらいいなあ、と思っていたんです。今回、公演のイメージ集として、写真やイラストをあげてらっしゃったと思うんですけど、バンドのYogee New WavesSAYONARA MATAという曲の画像もイメージ集の一つに挙げられていて。あ、Yogee New Waves、お好きなんだ!って思ったんですけど、あれを選んだのは何か、意図とかメッセージとかはあったんですか?

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↑ゆかさんがイメージ集に挙げられた、Yogee New Wavesの曲「SAYONARA MATA」の画像

岡澤:うーん。そうだね。音楽を大学生になってから日常的に聴くようになって。今まで、高校とかは自転車通学だったりしたから。なんか、音楽を聴くっていう習慣がなかったんだけど。電車で大学に通うっていうふうになったときに、駅まで歩いたりとかしたり、まあどっか出かけるとき、劇場に行くときとかも、電車乗ったりするからそこまで歩く、みたいなことも増えて。それで音楽を聴くようになったんだけど、なんかだんだん、好きなバンドとかアーティストの人が増えていって。Yogee New Wavesとかもそのうちの一つなんだけど、なんかこう、聞いてて、結構、フィーリング的にフィットしたって感じ、かな笑 なんか、なんだろな、もうちょっと詳しく言うと、総合的にいいなあ、と思った曲としてあって。あの曲、何が好きかっていうと、歌詞に歌われてる内容が、底抜けに明るいというわけじゃなくて。なんだろう、ちょっとした寂しさ、悲しさみたいなのがありつつ、でも、明るく生きていこうよ、っていうふうに捉えて。私としては。なんか、その考え方、素敵だなと思ったし、こう、何だろ、音楽の感じっていいうのかな、曲調も、全然暗くなくて、むしろこう、楽しくなるような、明るくなるような曲調だったりとか。そういう、総合的にあの曲を見たときに、なんか、フィーリングに合うなってところがあって。で、自分の演出する劇で、イメージとして提示したいなってなったときに、あの、暗くなさというか、をイメージとして示したいなと思って決めました。

—―なるほど。一度、円居でゆかさんが、みゆさんの担当する映像を観て、「明るさと暗さの同居」とか「ハッピーな方に偏るわけでもなく、すごく悲しくなるでもなく」という曖昧さについて話されてて、それもYogee New Wavesのゆかさんのイメージに関わるのかな、と今聞いていて思いました。

岡澤:確かに。なんか、そうだね。なんて言うんだろうな、こう、確か脚本のト書きにも残したと思うんだけど、なんかこう、マイナスの気持ちっていうのかな、ちょっと暗い話題。悲しい気持ちだったり、辛い気持ちだったり、そういう-な気持ちってすごい、共有しづらいものだと思うんだけど、そういう共有しづらいものを共有するときの手段として、こう、何だろな、あまり暗すぎない表現をする。日常とかで、こう、話すなかでもすごく重たいトーンで話すって難しいことかな、って

――そうですね。

岡澤:思ってて。そういう日常の作用みたいなところもあるし、かつ、なんかそう、何て言うんだろうな、せっかく劇として表すのなら、っていうところもあるんだけど。ちょっと暗くなりすぎるのも、今の気持ちとしてちょっと違うかなあ、と思っていて。どうしても、これから先も人生は続くし、なんだろ、もちろん悲しい気持ち、辛い気持ちみたいなのも持ってはいるんだけど、でも、それでもこう、毎日次の日が来て、今日になっていくから。そこを生きていくためには、ちょっと明るいエネルギーが欲しいし、それを宣言したい、というのがあって、そういう形になったのかな、って思ってます。

—―マイナスな気持ちやネガティブな気持ち、言いづらいことを語るっていうのは公演期間中、何度かおっしゃってたと思うんですけど、そうしたいって思われるようになったのは、演劇を始める前とか、演劇とは関係なく元から持っていらっしゃったんですか?それとも演劇をする中で思うようになったことですか?

岡澤:そうだね。最初は結構、興味本位で(演劇を)始めた。おもしろそうだなってことで演劇を始めて。で、それから中学、高校、大学と演劇をやったんだけど、なんか特に、大学生になってから、今回で4回目?かな?あの、演出をやると特に、演劇という、なんだろ、なんか、ちょっと、言い方おかしいかもしんないけど笑、演劇という手段を使って何か言う、みたいな、そんな捉え方になってきて。演劇という「場」だったり、機会を利用させてもらうことで、普段の生活ではちょっとうまく言えないけど、演劇だったら表せるとか、言えるみたいなものがあるなあ、と気づき始めて、っていう感じかな、うん。

—―「場」って表現、円居の紹介のときにも使ってらっしゃって、何だか安心感とか、雑多なイメージがあるなと思います。いろんな人がちょこちょこちょこって居て、緩くつながっているというような。
ちょっと話題を変えて。由佳さんが完成した作品をご覧になって、何か意外に思った部分とかはありましたか?

岡澤:あ~。なんか、それぞれの班で、条件みたいな、ルールみたいなところって、みんな統一でやっているにも関わらず、それぞれがそれぞれの場所で、それぞれの仕方で話すっていう形になったのは、すごくおもしろいな、と私は思っていて。屋内で話してる人、屋外で話してる人と結構、いい感じでばらけたというか笑 あの、なんて言うんだろ、偏りがものすごくあったりとか、すごい似てるな、みたいなことが全然なくて、なんか各々日記を見ていても思うけど、それぞれが自分事として話してくれたからこそ、映像としても、それぞれの特色が良く出た映像になったかな、というふうには思っています。

—―そうですね。例えば顔を映さないという縛りがありましたけど、その見せない方法も、顔から下を映す以外の方法を取っている人もいて。いろんな方法があるんだな、と思いました~

岡澤:そうだね、確かに。なんか、なんだろ、もちろんあれはルールとして定めて、全体としてやったんだけど、お客さんからちらほら感想をいただく中で、顔を映さないってことが、余白を生んだのかな、っていうふうに思っていて。なんかその作用はあまり意図してなかったんだけど、顔が見えないからこそ考える余地があったっていうのが、見方としていろいろ出てくるのが、すごいおもしろいな、と思って、最近感想を読ませていただいています笑

――1つ個人的に気になっていたことがあって。「身体を認める」っていうのが今公演のステートメントとしてあったと思うんですけど、オンラインの公演で身体を使って動かすみたいなのは、いつも舞台でしているようにはできない部分としてあったと思うんです。今公演での「身体を認める」ってどういう形になると考えていらっしゃいましたか?

岡澤:「身体を認める」っていうのは、ものすごく含みのあるというか、めちゃくちゃいろんな意味で考えている言葉としてあって。うーん。例えば一つには、オンラインで、オンライン上には身体が存在することってできないと思うんだけど。だからこそ、やり取りでお互いに、いい意味で気を遣うというか、こう、なんだろ、無理せずにやる?いい意味で無理せずにやる。体調が悪いときは休んでほしいし、その人の、マックスの力が注げるように、環境をつくるっていう意味で、お互いに、今日こういうことをやったよ、って言ったら、よくがんばったねっていう笑、ことをやったりだとか、環境として、その人の存在っていうと、ちょっと大きくなっちゃうけど笑、その人の身体?健康的な意味でもそうだし、精神という意味でもそうなんだけど、身体を認めていくってことも、作る環境を整えるという意味での身体を認める、がまず一つあるし、お客さんに対してもオンラインでアプローチしていくってことで、見ていて嫌な感じにならないような設計はしたつもりでいて、その、何て言うんだろうな、例えばだけど、想像の余白があるっていう話がさっき出たけれど、余白があることで、見る人の考えが入り込む場所をつくっておくみたいな。で、その見た人の考えが打ち消されないようにするというか、それをぜひ、大事にしてほしいな、と思うところもあって、そういう形になっているし。
あと、動画の長さみたいなところも、これはあんまり、お客さんに言っていいのかどうか分かんないけど、私だったら、動画の長さ見て60分とか出てきたら、ちょっと、あっ…てなっちゃう笑 とか、あるから、あえて無理にくっつけることはしないで、5つを順番に並べるってことをすることで、あの、どれから見ようとか、一個ずつ時間を置いて観よう、とかが可能になったり、いい意味で自由の中で観てもらうっていう、なんか、その人の、見てくれる生活だったり、その人の身体の状況、っていうのかな?に、寄り添うような観劇になればいいな、と思ってそういう環境づくりをしたり、という意味で、「身体を認める」っていう言葉を掲げてみました笑

                     ~後編へつづく~