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円居(まどい)レポ終「ところで今は何時でしょう?」

 2月の終盤になりました。劇団コギト2020年度卒業公演『ほらまたね。』の制作が始まってから、梅が咲き、春一番が吹き、三寒四温の日々が訪れ、マーメイドのロゴの桜ラテが販売され、広報担当の近所の靴屋さんでは桜の花びらの絵が飛び散った真っ白なスニーカーが看板代わりに飾られるようになり、このままだと本物の桜が咲いてしまう!となる前に、円居レポは最終回を迎えます。稽古は、今まで円居で話し合ったことを、それぞれの班の映像作品に還元していく収束段階に入りました。そこまでは理解できたのですが、春休みで浮かれてしまった広報担当者の頭の中では、時間感覚が狂ってしまい、2つの異なる時間帯が混ざり始めたようです。。何とか切り離して、それぞれのあるべき位置に戻さなければと焦っているうちに、円居が始まってしまいました!もう仕方がない!それでは最後まで、よろしくお願いします!!

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今日は2月21日、日曜日。第5回目、最後より一つ前の円居です。参加者は、
・ピンク班 (※今回は役者のみ)
・イエロー班
・ブルー班 (※今回は役者のみ)
・グリーン班
・オレンジ班
・応援より1名
・映像&記録スタッフのお2人
に、演出と広報担当を加えた、計13名です。

1. 場所と自分と他者と

前回の円居で迷宮入りした話し合いを解決するため、19日と20日に円居番外編が開かれました。そこでの議論を踏まえて、前回の課題であった、映像表現に関する条件が最終決定されました。「役者がテクストという他者と向き合っているその状況・状態」を表現することに重点を置くため、それ以外の行為に役者が気を逸らしてしまうことを避けるべく、「基本的に音声はワンカット、映像の編集はなし、カメラは固定、顔も映さない」という条件に定まったようです。
 前回の円居レポで、「自分と同じ場にいる他者」の話題に触れましたが、難しく考えなくても、「役者である自分自身と、台本の基となったインタビュイー(語り手)は他人である」という話は初回ぐらいから出ていたな、と今更気づきます。それから、物理的・現実的には一人きりでも、他人の存在を感じるときって日常の中で結構あるな、とも。誰かからもらったプレゼント、手紙、メッセージ。本人はここに居ないけれど、ここにいるぐらいの存在感を発揮させる物はいくらでもあります。そういえば、今回の公演のコンセプトは、「上演をプレゼントする」でした。それって、お客さんのもとに、他者の存在(感)が届く、ということなのでしょうか。。。

あと、これはもしかしたら「一人暮らしあるある」なのかもしれませんが、東京の一人暮らしの家にいるときと、実家にいるときの自分は、何となく違う二人の自分がいる、と思うことがあります。東京に完全に居住地を移してしまえば、徐々に変化していく自分を意識しつつ、実家暮らしの自分をぼんやりと忘れていくことになるのでしょうが、一人暮らしだと、年に何回かは実家に帰るわけです。実家に帰ってしばらくすると、今の自分と一緒に、中高生(ときには小学生)の自分の感覚や、その当時の心の在り方みたいなものが付いて回るような気がするときがあります。この「心の在り方」、決して「中高生当時に考えていたこと」や「当時の思い出」ではないんです。後者2つに関しては、忘れているものも今でも覚えているものもあります。でも「心の在り方」は、そういえば自分の中のどこかにあったなという、心臓やお腹の辺りに漂ってるような、身体的な感覚に近いもの、もっと長い間自分に沁みついているものなのです。とはいえ、実家に帰ったところで「完全にその当時の自分に戻った」とも思いません。それでも、この「心の在り方」の影響力は大きくて、それによってたまに急激に悲しくなることもあれば、とても幸せな気分になったりします。その感覚は東京で戻ってしばらくすると、徐々に消えていくような気もするし、最近は、どこかで東京にいるときの自分と混じり合っていっているような気もする。例えば、前回の帰省から戻ってくるとき、小さいころのお気に入りだった白くまのぬいぐるみを何となく、こっちに連れてきたのですが、彼の周りにその感覚が漂っていたりして、と思うことがあります。となると、この子は私にとっての、「自分と同じ場所にいる(架空の)他者」なのかも…??

↑他者…(?)。 小さいころから、お腹のところのloveの周りがハートではなくて☆なのがなんか最高だな!と思っている白くまです。

2.色ごとの違い、ひとりひとり?

 さて、円居のブレイクアウトルームでの話し合いに戻りましょう。
ブルー班のみゆさんと、イエロー班の中氏がおしゃべりしているところです。ブルー班の作品には「名もなき人たちの存在に触れているため、様々な人の声を入れたい」と話します。実際、練習中も、子どもの声やラジオ体操、太極拳をする音などが聞こえてきたものの、そのまま撮影を続けたそうです。一方のイエロー班では「夜感」をキーワードにしているそう。この日はそれ以上、このキーワードについて何も話を聞けませんでしたが、この2日後に行われた最後の円居で、「日常は明るく過ごしているように見える人でも、夜、家に帰ったら、寂しさなんかを抱えていたりする」と、さらに詳しく語ってくれることになります。夜は、特に今の状況だと、きっと多くの人にとって完全に1人になる時間ですもんね。そのときに何を思うのか。
さらに、お二人はイエロー班のパートの語り手と、ブルー班のパートの語り手の比較を始めます。それによると、イエロー班もブルー班も「1人」の状況の語りが似合う。しかし、ブルー班の語り手は心から1人を望んでいるわけではなく、「自らの体験や気持ちを共有したいが、人の目を気にしてそれができないため、結果的に1人になっている」。なるほど。だとしたら、ブルー班の語り手の周りにある様々な他者の声は、「名もなき人たち」の象徴でもありながら、その声の数が多ければ多いほど、語り手の「周りの人たちと共有したいけど、できない」というもどかしさを表すものにもなるのでしょうか。。一方、イエロー班の語り手は「話したくない」。積極的に1人になることを選んでいる語り手、ということでしょうか。中氏はイエローの語り手のことを、こんなふうに捉えます。「一つ一つの感情や出来事をとても大切にしている。大切にしているからこそ、話したくない。話したくないというか、言語化できない、みたいに。自分が言葉にできないことを自覚しているからこそ、自分が語っていることを拒んでいる、嫌がっているのかな、というふうに思いました。」この考え方、個人的にとても共感できるものでした。何か本当に好きなものを発見したとき、(この例えはイエロー班の語り手がとどめておきたい感情とは種類が違いすぎるかもしれませんが)何としてでも自分の心の中にとどめておきたい、というふうに感じたことが何度かあるのですが、それに近い感じなのかな、と思います。何かを自分がいかに素晴らしいと思っているか、誰かに力説すればするほどその思いが空虚になっていくような。だったら、心の中にとどめておいた方が、純粋な感情を完璧な状態で自分の中に保存していられる、と確信する時があります。まあそうは言いつつ、余計なことを口走ってしまうこともあるので、微妙な話ではあるのですが…。それに、みゆさんの分析を聞いていると、ブルー班の語り手の言う、「共有したいのに、共有できる相手がいない」というのに近い思いもいつか持ったことがあるような。この円居の2日後(2/23 火曜日)に、みゆさんと演出さんがお話をしているところを覗いてみると、、みゆさんが練習動画を撮っている最中に、近くを灯油屋さんが通ったときの話をされています。そのときに、みゆさんが「灯油屋さんだ」「いなくなった」とアドリブでつぶやいたそうですが、そうつぶやいた理由として、「相手と状況を共有したかったのかもしれない」と振り返ってらっしゃいました。ブルーの語り手の、相手と共有をしたいという思いが、こんな咄嗟の言葉にも出るんですね。
他の語り手との違いを考えたい」。語り手どうしの感情の持ち方、その置き所の違いは、今回の作品の見どころの一つになっていくのだと思いますが、意外とどんな他者の気持ちでも、真剣に聴いていたら、どこかで部分的にでも共感できるものなのかもしれません。

3.つながる、過去・現在・未来

時間を戻して2/21日曜日の円居。「こ~んに~ちは~」と、教育テレビの歌のお兄さんのテンションで、会話に入ってきたのはマスケンさんです。この辺りから何となく、話題は班が独自に追い求めるものから、全体の中でのそれぞれの立ち位置へと移ります。

「オレンジ班の単体のテーマは、『総括』。最後に持ってこられちゃってるわけだから、作品全体の締めを担っているわけなのね。」(オレンジ班役者)
「他の班と比べて実際に起こったことの整理のような台詞が多くて、導入部分としての役割があるのかな、とは考えました」(グリーン班役者)

のように、班に割り振られた番号の順序を基に考える方々に対し、

「この5本で脚本全体って意識したことないのよ。1+1+1+1+1というか、0.2+0.2+0.2+0.2+0.2=1というか。星形のイメージ。一本の脚本で一直線というよりも。」(ブルー班役者)

とまるごと班一つ一つの作品が結びついている、と考える役者さんも。先ほど挙げた「どんな他者の感情でも、真剣に聴いていたらどこかで自分のものと重なるかも。」という視点で考えると、5人はばらばらの気持ちを語っているけれど、根底には似たような思いがあったり、もしかして実は同じ人の複雑な気持ちを分割させたものが5人の気持ちだったりして…などなど、いろいろな捉え方ができますね。
さらにピンク班の役者さんと、ブルー班の役者さんは、お互いの語り手の「過去」「今」「未来」の捉え方について話します。お互い、「『今』を大事にする」というメッセージを自分のパートから読み取られたそうですが、「今」が連続してできていくのが人生だからこそ、「今」を大事にしようとするピンクの語り手と、「過去」は切り離せるもので、遠ざかってしまうものだからこそ、いつか「過去」になって忘れてしまう「今」を大事にしよう、とするブルーと。皆さんはどうお考えになるでしょうか?
それにしても、「今」を大事にするとはどういうことなんでしょう。「今」芽生えた感情に従うこと?でも、そのときの自分の気持ちが分からないことなんてしょっちゅうです。後で整理しないと、自分の気持ちがつかめない。脚本の中で「日記」がちらほら出てきますが、私が日記をつけるとしたら、一日の中のこのとき、自分が実際何を思っていたかを確認するため、になりそうです。人それぞれの時間の感覚(そういうものがあるとすれば)でいうと、私の場合、「過去」が良くも悪くも重いので、「今」は何度もひょこひょこ顔を出してくるイメージがあります。そういう意味ではつながっているという気もするし、でもついさっきまで「今」があったのに、「過去」が飛び込んできた、というようなこともあるし。


ここでまた2/23 火曜日の円居に時間を進めてみると、演出さんがこんな話をしています。

各班の撮影のために選んだ時間帯について。役者の中では「昼間と夜の境目の、太陽が昇り切っていないとき」を選んだ人もいれば、宣伝美術さんは、「『夜』に考え事をしていて、『明け方』に何か思いつく」流れをイメージしたそう。おもしろい。(公演に関わる人どうしで)つながりがいろいろ見えてきて。(演出)

さらに、役者さんへのフィードバックの中では「+とも-とも取れない曖昧さ」にフォーカスした話も展開されました。

「悲しみでもなく、喜びでもなく。」(演出)

今回は(作品全体の、あるいは一つ一つの)「時間」に伴う「感情」に目を向けて観るのもおもしろいのかもしれません。。

4.本当のおしまい

 繰り返しになりますが、本日を持って円居レポは終了します。今まで拙い文章を読んでくださり、ありがとうございました。円居という新たな試みに臨んだ座組メンバーの雰囲気を感じ取っていただけていたら、幸いです。
さて、今回の円居の終了後、それぞれの班で役者による本番の撮影が始まりました。完成作品は3/1~3/7にかけて特設サイトで配信されます。
これまでご紹介してきた円居や稽古での過程が、最終的にどのような作品へとつながったのか。それぞれの日常にお帰りになる前に、ぜひ少し立ち寄っていただければ幸いです。座組一同、お待ちしております。
それでは、解散!