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岐阜漢詩壇の蒿矢
岐阜の漢詩人、宮田嘯臺(1747 延享 4年 ~ 1834 天保5年天保5年12月13日)のお墓を久しぶりに訪れました。
宮田嘯臺、名は維禎、字は士祥。通称を平作とし、のち秉策と改む。加納宿(現岐阜市)にて造り酒屋(和泉屋)を営み、後にのべる金龍上人、山田鼎石とともに美濃地方における最初の漢詩結社「鳳鳴詩社」を築いた詩人です。
若い頃に彦根藩の藩儒だった龍草盧を訪ねて贄を執り、続いて京都詩壇の雄だった江村北海を師表に仰ぎ、北海が郡上藩へ講義に訪れるやうになるとその都度加納宿で仲間と歓待饗応しました。仲間内では最も長寿だった為、次世代の村瀬藤城や頼山陽との交流も記録されてゐます。
彼の詩集は生前の版行には至りませんでしたが、詩稿は遺され、壮年期までの作品を集めた『看雲栖詩稿』全12巻が1991年、遺族により原姿を留める和本の装幀で復刻されました。
旧加納宿の邸宅に末裔の宮田佳子様を何度もお訪ねして、屏風ほか沢山の遺墨資料を拝見させて頂き、親しくお話をお伺ひしたことが思ひ出されます。
それらは現在岐阜県歴史資料館に、そして蔵書1,500冊余についても岐阜県立図書館に寄贈され、特別文庫「看雲文庫」として管理されてゐます。
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さて最初の漢詩壇と述べましたが、江戸時代の美濃地方の漢詩壇は大別すると3つの時期に別れます。
有名なのは文化文政時代(1800年代前半)、頼山陽門下の高弟だった村瀬藤城(美濃)・江馬細香(大垣)を中心に、帰省時の梁川星巌も交へて賑わった「白鴎詩社」、そしてその流れを汲んで小原鉄心(大垣藩藩老)の周りに集まった幕末(1800年代中盤)西濃の「咬菜社」ですが、それよりも前の明和・安永・天明の頃(1700年代後半)、岐阜の漢詩壇の先駈けとして、金華山麓、釜石町(現本町付近)の山田鼎石を盟主として、宮田嘯臺ら加納宿の若い後進たちが集ったのが「鳳鳴詩社」でした。
そして彼らが更に郷土の先輩詩人として推戴したのが、諸国遍歴したのち京で名を馳せ、西濃に帰郷した老衲の金龍道人です。彼については中野三敏先生による評伝「金龍敬雄」『近世新畸人伝』(毎日新聞社、1977年)が詳しく、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが出来ます。学僧詩人にして敵味方の多かった豪宕不羈の気性は、後進の六如上人に受け継がれてゐるやうにも思はれます。
金龍道人が故郷の詩壇から推戴されたのは、彼が江村北海と「賜杖堂詩社」を結成した盟友の間柄であったからであり、若い詩人たちが京都に出向いて北海門下となった際に、合せて交誼に与ったものとみえます。
そして江村北海とはいへば、主君(青山幸道)の郡上藩移封に伴ひ、京都から講義に赴くため、奥美濃までの中山道を往来するやうになります。
本人にしてみれば老齢でもあり、避暑を兼ねるとはいへ住み慣れた京洛を離れたくはなかったでしょうが、藩主に請はれれば仕方がない。しかしながらこれが加納宿ほか街道筋の、町人を主体とする同年代好事家門人たちにとっては格好の機会として、師を迎へての応答詩・送別詩のモチベーションになりました。紀行『濃北紀遊』はその際の江村北海による産物です。
また岐阜から京都までの旅の途中にある彦根には、やはり詩人として名高い学者の龍草廬が居りました。彦根藩儒の彼に対し、宮田嘯臺だけでなく師礼を執る美濃の詩人たちも多く、江村北海と龍草廬の詩集に彼らの名前が現れるのはそのやうな理由によるやうです。
『北海先生詩集』および『草蘆集』に現れた岐阜の詩人たちを数へてみます。
〇『北海先生詩集』の詩篇に現れる岐阜詩人の回数
梁田蛻巌 5
金龍敬雄 2と初篇の序
武田梅龍 2
智洲 1
岡某(大垣・薜茘園) 1
山田鼎石 1と二篇の序
矢橋赤山・赤水 2
宮田嘯臺 4
左合龍山 2
森東門 0
申文栄 2
申東策(酒造) 1
小出公純 1
村篠生(芥見) 1
〇『草蘆集』の詩篇に現れる岐阜詩人の回数
金龍敬雄 1
山田鼎石 0
矢橋赤山・赤水 1
宮田嘯臺 14と四篇の跋
宮田士瑞(維珪:嘯臺弟)・士祺 1
川合春川 4
左合龍山 3
森東門 6
岡蘭夫 5
智洲 1
赤田臥牛 3
上田爽鳩 3
源煕卿 1
松尾東策 1
田代煥 1
更にこれらの詩人たちの生没年を略記してみます。
1750年前後に集中して同世代の詩人たちが固まってゐるのが分ります。
彼らの文教ネットワークが先駆けとなり、次世代の漢詩隆盛が用意されました。
梁田蛻巌 1672 寛文12年 ~ 1757 宝暦7年
江村北海 1713 正徳 3年 ~ 1788 天明8年
龍 草廬 1714 正徳 4年 ~ 1792 寛政4年
金龍敬雄 1712 正徳 2年 ~ 1782 天明2年
武田梅龍 1716 享保元年 ~ 1766 明和3年
山田鼎石 1720 享保 5年 ~ 1800 寛政12年
矢橋赤山 1743 寛保 3年 ~ 1785 天明5年
矢橋赤水 1747 廷享 4年 ~ 1815 文化12年
宮田嘯臺 1747 延享 4年 ~ 1834 天保5年
森東門 ~ 1799 寛政11年
赤田臥牛 1747 廷享 4年 ~ 1822 文政5年
上田爽鳩
川合春川 1750 寛廷 3年 ~ 1824 文政7年
左合龍山 1754 宝暦 4年 ~ 1779 安永8年
後藤換璋 [1760 宝暦10年] ~ [1776 安永5年]
智洲(大垣) ~ 1781 安永10 年
岡蘭夫(大垣) [不詳]
申文栄 [不詳]
申東策 [不詳]
冢原春泉
井上蘭汀?
源煕卿 [不詳]
古典籍のデジタル公開が進むなか、今後この世代グループの郷土詩人たちについても刊行詩集を中心に紹介してゆきたいと思ってゐます。今回は概略まで記します。
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【付記】
なほ、龍草蘆を紹介する図録『龍草蘆―京から招いた彦根藩儒学者の軌跡(1993年彦根城博物館)』ですが、誤記を掲げます。お持ちの方は訂正下さい。
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28p碑文
彦子城南有培塿数里、土俗所謂千鳥岡也。吾藩文学龍先生
以其所、嘗自著詩若文諸註釈等之草稿、瘞諸斯矣。蓋愛其勝
地也。門生等相与謀、建石以鎮焉。先生自作國風一章、以手題
於石、且篆額曰文塚焉。先生名公美、字子玉、號草廬、伏水人。
明和七年庚寅春
門生 松平倉之介 源 康純 記
奥山右膳 藤 共建 書
訓読
彦子(彦根)城南に培塿(小塚)数里あり、土俗の謂ふ所の千鳥岡なり。
吾が藩の文学、龍先生、其の所を以て嘗て自著の詩若しくは文の諸註釈等の草稿、諸(これ)を斯(ここ)に瘞(うづ)む。蓋し其の勝地を愛する也。
門生等、相ひ与(ともに)に謀り石を建て以て鎮む。
先生自ら國風(和歌)一章を作り、以て手づから石に題し、且つ篆額して文塚と曰ふ。
先生、名は公美、字は子玉、號は草廬、伏水(伏見)の人
明和七年(1770)庚寅の春
門生 松平倉之介 源 康純(字:少卿・号:寒松) 記
奥山右膳 藤 共建(字:子樹・号:華嶽) 書
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