『亀井勝一郎:言葉は精神の脈搏である』
山本直人氏による亀井勝一郎の評伝『亀井勝一郎:言葉は精神の脈搏である(ミネルヴァ日本評伝選2023.9)』が公共図書館にやうやく登場。
亀井勝一郎といへば高校生の頃に手にとった人生論がなぜかつまらず(単細胞な私は加藤諦三にハマった)、のちには「保田與重郎の大和禮讃を一般に説き直した」といふ言を信じて読みもせずゐたのですが、革命と戦争に翻弄された戦前世代の文学者のなかでも、一番生真面目に状況に対処したといへる批評家の生涯を、思想の偏りなく丁寧になぞった本書は、新資料や周辺情報にも目配りされ、テキスト未読の私にも興味深く読み進めることができました。作品を読んでゐませんので拙いですがご紹介まで。
戦前の、格差が酷かった田舎において、“太い実家”出の文学青年にはありがちだった富める者の孤独と罪悪感。それを一身に負ってしまひ、真っすぐマルクス主義の政治運動に身を投じた彼は21才から2年間、投獄生活を送ります。亀井勝一郎は左翼潰滅後に本格的に文学を始めた『コギト』の同人達より一つ上の東大世代なのですが、出獄後に運動家でなく理論家として再出発するものの、目の前に突きつけられた小林多喜二の殉教死に動揺せざるを得ず、周りの同志と同様に転向を余儀なくされます。
挫折を通じて導かれたのが、死刑判決を弄ばれたドストエフスキーでありました。かつて青年時代に培った西洋教養主義に立ち返った彼は、その後の昭和10年代の文芸復興期に仏教世界へと開眼してゆきます。
しかし日本回帰へのアプローチ(すなはち左翼の掲げた理想に対する未練の有無)を異にしたが故に、『コギト』の論客保田與重郎と共に立ち上げた雑誌『日本浪曼派』とは早期に袂を分かってしまひます。そして戦時中の孤立した立場が幸ひして戦後、戦争責任の指弾から彼を救ふことに繋がり、文壇への復活をいち早く果たして晩年は名士として遇せられたのは、やはり運命といへるのでしょう。――いふなれば災難と僥倖との連続ともいへる人生の、原因と結果とが、悉く彼の一途な生真面目に由来するものだったといふ印象を強く抱きました。
人生のターニングポイントとなった転向体験については、
「牢獄と言う施設が、生まれながらにして背負わされた贖罪意識を償う禊ぎの場としての機能を果たすことに(128p)」なったのだと説明されてゐて、当の亀井自身が、
「僕は必ずしも回復をのぞまず、死に至らざる程度に、適度に病気であることにひそかな安らひを覚えたやうである。自分を囲繞する一切の事情から、波瀾なく誹謗なく痛みもなく、人知れず消え去りたかった。(137p)」
と述べるその一方で、転向上申書には、
「今後政治的活動はしない」が「革命的戦士に対しては最大の尊敬を払ひ」、「他の同志や党を誹謗するやうな事は絶対に」せず、なほ「プロレタリア陣営内における主として藝術的哲学的研究に一身を捧げる (138p)」
などと表明してゐます。贖罪意識に苛まれてゐるのですが、結局小林多喜二の死を前にしては耐へられず、亀井の次の言葉、
「現在の私にとって、政治は一つの憧憬である。」
に対して山本氏は間髪を入れず、
「この一文を引くだけでも充分だ。彼は政治への情熱を語っただけで、実際の政治活動を開始したわけではない。(192p)」
と指摘し、
「亀井勝一郎にとって「日本回帰」とは「日本脱出」の延長線上にあったと言えるのではないだろうか。223p 」
と、そして、
「「厭戦思想と戦争讃歌のギリギリの不安定さにささえられた文体」こうした「亀井美学のアイマイさ」こそが、「協力・抵抗」の二分法では括ることのできない戦争文学の複雑さとともに、「戦犯」よばわりされながらも、早くも言論界に復帰することができた批評家の処世の鍵が隠されているのかもしれない。(322p)」
と裁断してゐます。
ことにも戦時中、青年達との対話の末に詰められた彼が、全く答にも何にもなってない返事で糊塗する条りは容赦ない感じがあります。
「あなたは危機とか救いとかという言葉を好んで使いますけどネ。だけどほんとは最初から救われているじゃないんですか?」
「俺たちは毎日危機の連続なんだよなア。俺の友だちは大陸でたくさん戦死している。亀井さんのように貴族的な心境に立って、最初から安心立命しているのとは違うんだ」
と学生達がたたみかけると、さすがに亀井もそれに応じざるを得ない。
「それは君たちの甘えではないのかネ。もっと自分をよく見つめて、状況にたいして責任のある態度をとろうとしなければ、ものごとの判断なんかつきはしない。」
と答えたとされる。(中略) かれらが難問を浴びせようという意図を見破り、かえって毅然とした態度を崩さず、約一時間ばかり頑張ったらしい。(241p)」
しかしながら斯様の状況下で、まるで胃液を吐くやうに絞り出された戦時中の彼の独白は、この本で私が一番の感銘を受けた条りでもありました。
「ところで仮りに私が己を犠牲としたとき、信仰は私において完うされたと感じることが出来るであらうか。……私は戦慄を禁じえない。信ゆゑに死はほんたうに平然たるものなのであるか。……いかに祈つても、神仏は何らの保証は与へぬ。自己犠牲とはただもう苦しいだけのものなのではあるまいか。祈りの深さ浅さに拘らず、死苦だけは冷酷に公平であるやうに思へる。ただ無念の思ひの一語に尽きるのではなからうか。」(256p)
そしてこれに対して山本氏が添へた文章こそ、本書中盤にして一番キモのやうに感じられたのでした。
「つまり、自己犠牲を強いられた人間においても、神仏の救いがあるという保証がどこにもないというのである。かくも絶望的な信仰論があるだろうか。ここまで問いつめた挙げ句、亀井は「近頃私は、忍耐こそ最上の美徳であると思ふやうになつた」とまで述べている。(256p)」
「むしろ徹底的に絶望に身を投ずることを、この世を生きる人間の宿命として諭しているのである。「永遠の徒労は永遠の生命を得る」、そして「人生に耐へよ」 (257p)」
「これが戦争という不可避な事態に直面した壮年期の亀井が、ようやくたどり着くことができた一つの結論であった。(258p)」
敗戦末期の心情にも分け入ります。
「外来思想による翻弄を通じて甘受しなければならなかった、誠実さゆえの悲運を生きてゆこうとする姿勢は、そのかみの仏教を信仰した聖徳太子の悲運にまで遡ったということだらうか。(296p)」
また当時の体勢に対する協力については、
「私は私の自由意志において日本を愛した。しかし専制政府は、絶対に私固有の「愛」なるものを信用しない。はじめから文学者を疑ってかかつてゐるのだ。そして「協力」においては、もう一度「愛国者」にならなければならぬといふ二重行為に対して、私はあきらかに役者であることを自覚してゐたのである。(317p)」
と、愛国心を守るために「愛国者」の殻を被ったといふ弁疏も紹介されてゐました。
さて、後半はジャーナリズムの著名人となり社会的な発言権を持つやうになった戦後の評伝に進みます。
原子力を第二の「黒船」と呼び(341p)、国交正常化前の中国に呼ばれては陳毅副総理から「我々は過去のことを水に流したい」と云はれて「侵略戦争の責任がある以上、水に流すわけにはゆかない」と応じた(378p)など、現在の両国とはまったく逆だった状況に、私も山本氏同様おどろきを隠せないのですが、晩年の彼には古代から現代に至る、文芸に留まらぬ「日本文明の精神史」といふ壮大なライフワークの構想があったことが、途絶した連載計画の全体像とともに語られてゐます。
刊行に合せて『月刊日本』が行った著者インタビューがありますので、合せて読んで「忘れられた批評家」扱ひをされてゐる亀井勝一郎をこの時代に顧みる良い機会になればと思ひました。
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ここからは余談。サイト管理人としての私が興味あったのは、左翼の先鋭的闘士だった彼が『日本浪曼派』に参加することになった事情や、詩人たちとの関係でありました。
「組織から弾き出された個人が、いかにして現実の動乱と葛藤するか――そこに目覚め始めた亀井の批評精神の課題。(189p)」
「(政治と文学に対する)内なる二つの情熱の乖離を「描く」という行為を通して対象化しようとしているのである。(190p)」
「組織から弾き出された」を「左翼壊滅後の」とし、「内なる二つの情熱の乖離」を「内なるデスパレートな心情」とすれば、そのまま雁行世代である保田與重郎の初期の問題意識と変はらない気がします。また雑誌『日本浪曼派』についても、
「出発点において「広告」や「創刊の時」の抽象的な言辞を、各人の意識に置き換えて、自分なりの文学運動の抱負にしたというのが実態に近い。(198p)」
との分析は、日本浪曼派なるものを保田與重郎以外の文学者に宛てて語る場合の、基本的な留意事項であるやうな気がしました。
肩の凝らないところではもちろん太宰治との交流も描かれてゐます。
「何よりも太宰が「東北人」であったことが、亀井にとっては保田與重郎以上の親近感を与えたらしい。283p」
「亀井は太宰によって「文士」となる教育を受けたものの如く(略)これまで「政治か文学か」と堅い頭だった亀井が、「おとなしい中にも男の我儘」を見せるようにもなった(285p)」
のだといひます。ふむふむ。
中学を4年で修了して山形高校に入ったクラスメートに阪本越郎や神保光太郎があったことや、当時席巻したマルクス主義の嵐の急先鋒に、神保光太郎ではなく後にモダニズム詩人として名を馳せる阪本越郎がゐたというのも初耳で興味深いところでした。
それから函館弥生小学校時代の同級生として赤羽寿(赤木健介[伊豆公夫])が冒頭に出てきます。彼は田中克己の戦時中に評判をとった評伝『李太白』執筆の斡旋をしてゐるのですが、日記には赤羽尚志といふ名で登場してゐます。『日本浪曼派』には呼ばれなかった田中克己ですが、亀井勝一郎が右翼に殴られたなどのニュースを昭和18年に彼から仄聞してをり、戦後共産党に再入党して幹部となった彼にとって田中克己との交流など黒歴史に類するものとなったかもしれませんが、彼と末永く友誼を保った亀井勝一郎を田中克己も戦後上京してから何度か訪問してをり、その際には、きっと詩集の跋文も書いてあげた彼の話が出たことと思ひます。最後に赤木健介に触れてゐるところを覚えに引いて置きます。
「赤木はその後、父の転勤に伴い転校したようだが、弥生小学校では三年から四年大正四年から六年——の間、勝一郎とともに同級生として過ごしたことになる。その中で、「われわれのクラスは、四十人ぐらいだったと思うが、成績第一位は上田勤(のちの英文学者、東大教授、故人)、第二位が亀井、第三位がほくだった」とされる。二人とも学級内でも、上位を争うほどの優等生だったらしい。
その後、赤木とは函館中学でも合流するが、勝一郎が山形高校に進み、赤木が姫路高校に進学した後も、再会を果たしている。赤木が詩集を上梓した頃、亀井はすでに『日本浪曼派』に参加。赤木はプロレタリア文学陣営の立場から伊豆公夫名義で浪曼派批判を展開していた。戦後は日本共産党に再入党。亀井が文壇で戦争責任者として糾弾される中、アカハタ文化部長まで務めている。両者にその後も五十年にわたり、変わらぬ友誼を保ち続けられたのは、奇跡的ともいえる。(36p)」