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南 史一著『詩伝 陶淵明 : 帰りなんいざ』

 先師田中克己の日記翻刻を了へたのち、陶淵明詩の読み較べにいそしんでをりました。
 訳書はもちろん研究書も山ほどある陶淵明。この人気詩人については専門分野のみならず実に多くの人が文章をものしてゐます。
 ただ李白・杜甫・白楽天・蘇東坡について単行本を書いてゐる私の先師田中克己ですが、陶淵明を語ったことは余りなく、「陶淵明を好いた人」といふ一文があるものの、これは淵明そのひとについて語ったものではありません。それで日記の方を検索したところ、陶淵明の伝記を執筆中といふ在野の社会人から相談を受け、読むべき本をアドバイスしてゐることが分りました。今宮中学・大阪高校の8年後輩であり、田中克己を中文の専門家として手紙を認めたその人は、しかし文学とは畑違ひの民間サラリーマンでした。 

昭和40年4月3日
大高後輩、南史一君より「陶淵明につき千枚の原稿あり、みてくれ」と。「鈴木・斯波・吉川3博士見たか」と返事す。 

 「鈴木・斯波・吉川3博士」といふのは、鈴木虎雄『陶淵明詩解(弘文堂書房1948)』、斯波六郎『陶淵明詩訳注(東門書房1951)』、吉川幸次郎『陶淵明伝(新潮社1956)』の3冊のことで、いづれも誉れ高い名著です。その後、吉川門下の一海知義が岩波書店の中國詩人選集の一冊として『陶淵明(1958)』を出して好評を得、全詩篇の翻訳『陶淵明(筑摩書房世界古典文学全集1968)』を成し遂げて陶詩研究の第一人者となったのは万人の知るところです。

 それでこの南史一(みなみふみかず)氏ですが、千枚の原稿は三倍になり11年後、淵明の代表作である「帰去来の辞」に関する新解釈を朝日新聞紙上に掲げます。ところが研鑽の結果を掲げたのはよいとして、それまでの定説が広まった原因を「ある大家」、すなはち吉川幸次郎と分かるやうな書き方で示し、その解釈を受け継いだ一海知義とともに、その訳文は陶淵明を茶化してゐはしまいかといふ趣旨にとられかねない文章だったから大変です。「帰去来の辞」序文に記された伝記のキモとなる一節「『斂裳宵逝』の解釈について」と題された一文が、自分のみならず師のメンツに関はると判断した一海先生、一介のディレッタントの南氏に対し敢然と筆を執り本気で反論します。同新聞紙上で行はれたやりとりは、更に南氏からの再論をもって熄んだのですが、氏はその際にも田中克己に手紙を出して返事をもらってをります。 

昭和51年5月22日
南史一氏より「陶淵明につき一海知義教授と討論せし。判定を」と。「貴君の方、尤も」と返事。 

 年下にはお世辞を言わない田中先生のこととて私も気になりました。南氏の原稿は8年後の昭和59年に、

南 史一著『詩伝 陶淵明 : 帰りなんいざ』 創元社(大阪)、1984年6月1日発行、xii,562,12p、縦寸20cm

 といふ600ページに近い単行本として大阪創元社から刊行され形になります。田中克己日記にはどこにも触れられてゐませんが寄贈されなかったのでしょうか。そして寡聞ながら書評や、参考文献として挙げられたものを見ず、南氏自身それ以外に文学書を著した形迹がないまま亡くなってゐるらしいのです。

 かうなると一体どんな本なのか、本文は如何ならんと却って読んでみたくなりました。
 幸ひ現在も古本で簡単にみつかる本だったので早速入手すると、くだんの一海先生との論争は巻末に「付録」としてそのまま載せられてをりました。やりとりをそのまま掲げます。 

 『斂裳宵逝』の解釈について 南史一
     【『詩伝陶淵明 付録』533-534pより転載】 
 陶淵明が彭沢の令となって八十余日の在職の後、それを辞する際に作ったとされる《帰去来の辞》の序文に、
『少日に及び眷然として帰らんかとの情有り。・・・・・・猶望む一稔(いっしん)にして、当に裳(もすそ)を斂(おさ)めて宵(よい)も逝くべしと』との一節がある。
 ある大家の解説書に、ここを『宵(よ)に逝(のが)るべきかと望みぬ』と読み、「しっぽを巻いて逃げ出そう」と解釈されて以来、これが支配的となり、数種の解説書がこれにならい、「すそをからげて宵にまぎれて逃げるに限る」という風に、いっそうの滑稽味を加えた解をなす。
 諧謔を旨とする戯文ならば知らず、当代の虚誕放達の風に染むを潔しとしなかった誠実な淵明が、その生涯の重要な転機に際し、まじめな意図の下に力をこめて作った《帰去来の辞》の序文の解釈として、これはまことにふさわしくないと思われる。
 そこで私は、この句の由来を〈詩経〉召南〈小星〉の篇、宮仕えの女性もしくは下級官吏が、宵(よる)もなお勤務に行かなければならない身の上をなげいて、「粛々として宵も征(ゆ)き、夙(あさ)に夜に公に在り」という句に求めたい。とすれば、淵明の『斂裳宵逝』の意味は、直接には着物の裾をたくり上げて夜もなお勤務に行くことを、間接にはそのような心構えで職務に臨むことを意味するであろう(近・征ともに「行く」の義※)。淵明の他の詩における用例、自己の官吏生活を詠じて『役を懐わば寐ぬるに遑あらず、中宵、尚、孤り征く』(《仮に赴く》)、農繁期の農民を叙して『桑つむ婦は宵も征き、農夫は野に宿る』(《農を勧む》)もまた、夜も職務仕事にはげむさまを表す。
 辞任前の心境を述べるこの短い句をもって、せめてもう一年の間は公務に精励しよう、の意に解するか、しっぽを巻いて夜逃げする、ととるかは単に一句の些末な訓詁の相異に止まるものではなく、淵明の人間解釈の方向を左右する問題ではなかろうか。(昭和51年3月3日〈朝日新聞〉夕刊)
 (南氏注)『※この両字に意味上の差があることはいうまでもないが、紙面の都合から字数の制限もあり、かつは一般読者の方々を対象とする場合、さほど厳密に区別する必要はないと考えてこう記した。なお〈説文〉・〈爾雅 釈詁>・〈増韻〉等には、征・近両字ともに行なり、往なり、とあり、古い字典ではこの二字の別をあまりやかましくはいわないようである。』
 

 うなずけぬ《帰去来》新解釈 一海知義
     【『詩伝陶淵明 付録』535-536pより転載】 
 陶淵明の隠遁宣言である《帰去来の辞》の序文のうち、役所づとめにいや気のさした淵明が『猶望一稔、当斂裳宵逝』といっている部分、ことに『宵逝』の二字についての従来の解釈を正そうとするのが、南氏の所論の意図である。
 南氏はいう。「すそをからげて宵にまぎれて逃げ出す」とする従来の解釈、滑稽味を加えた解釈は、いけない。もっとマジメに解すべきで、実はこの句は〈詩経〉の「粛々として宵も征(ゆ)き、夙(あさ)に夜に公に在り」をふまえ、着物のすそをたくし上げて夜もなお勤務に行くことを意味する。南氏はそういった上で、逝と征はともに「行く」の義と注し、なお淵明の他の詩に見える「宵征」ということばの例を二つ、傍証として挙げる。
 「従来の(滑啓味を加えた)解釈」に加担してきたものの一人として、私は南氏の説をややくわしく検討した。そして、結論からいえば、南説は私を説得しない。
 言うべきことは多くある。たとえば南氏の引く傍証、典拠引用の方法、中国古典語の文法構造等にも言及するとすれば、かなりの紙幅がいる。だがここでは、二点のみ挙げる。まず、「宵逝」は「宵征」と同じ、とするところに、南説の飛躍がある。「征」は旅などに出かけることを含め単に「行く」ことをいうが、「逝」は「光陰逝く」「日月逝く」、あるいは川の流れを見て「逝く者はかくの如きか」(〈論語〉)などというごとく、行って帰らぬこと、元にもどらぬことを指していう場合が多い。〈詩経〉の「宵征」は《帰去来の辞》の「宵逝」の典拠とはなり得ない。
 第二点。『猶望む、一稔にして、当に裳を斂めて宵逝くべし』の「望む」とは、期待をかける、待ちのぞむの意である。前後の文脈からもそれ以外の解はない。とすれば、南説のごとくマジメに「せめてもう一年の間は公務に精励しよう」と訳したのでは、「望」の意が生きてこない。
 南氏は結論としていう。公務に精励しようととるか、しっぽを巻いて夜逃げするととるかは「単に一句の些末な訓詁の相異に止まるものでなく、淵明の人間解釈の方向を左右する問題ではなかろうか」。
 その通りだと思う。私も淵明が誠実な詩人だったことを疑わない。しかしいわゆるマジメ人間だったとは思わない。現に同じ序文の中で、役人になるのはイヤだが、官田からとれる米で好きな酒がつくれそうだ、一つ思い切ってみるか、などといっている※※。淵明はユーモアや諷刺の好きな、したたかな詩人であった。(同年、4月14日〈朝日新聞>夕刊)
 (南氏注)『※※一海教授はおそらく《帰去来の辞》序の「公田之利、足以為酒、故便求之」を指しておられるのであろう。この句は県令となる理由を軽く酒にことよせたもので、真実の理由はむしろ、各本伝に載せる「聊欲絃歌(郷を治める)、以為三径之資」にあろう、というのが私の見解である(本文110頁以下参照)。』 

 一海教授のお説に対する再論 南史一
     【『詩伝陶淵明 付録』537-539pより転載】 
 一海教授のご指摘の諸点について私見を述べます。
 まず第一に、逝と征とを同じとする所に飛躍があり、〈詩経〉の「宵征」は《帰去来の辞》序の『宵逝』の典拠たり得ないとの点について―――もともと逝の字は往きて帰らずの義に用いられ、征は旅や戦にゆくことを意味する場合が多いことは、ご指摘を待つまでもないことでしょう。
 しかし反面、このような区別をしない例もあります。〈詩経〉小星の篇の「征」もそこでは単に「行く」の義であり、同じく〈詩経〉に「逝」の字が広く一般に「行く」の義に用いられている例が少なくとも二、三は見られます。淵明の詩では、壮年時代の長江下流地方への赴任を回願して、『涙を掩(ぬぐ)いて[江に]汎かび東に逝く』(《雑詩》-九)、『軒(くるま)と裳(ふく)もて東の涯に逝く』(《雑詩》-十)、転任する官吏を送る時に、『逝くと止まると判として路を殊にす』(《客を送る》)の三例、ともに公務の旅をいい、「征」こそふさわしいにかかわらず、淵明は「逝」を用いています。このように〈詩経〉も淵明もともに、「行く」の義をもつ征・逝両字を、その字義の別を意識して用いる時もあり、さほど厳密に区別して使い分けしないこともあるようです。従ってこのような寛(ゆる)い条件の下でなら、『宵逝』の典拠を〈詩経〉の「宵征」に求めることもまた許されるのではないでしょうか。
 次に私の解では望の字の意が生きてこない、とのご指摘について。―――望には期待をかける、待ち望むの意のほかに、希求する、さらに意欲的能動的にものごとの達成を意図する、の義があります。とすれば、私の解でも望の意味は充分に生きるものと存じます。
 最後に、淵明はマジメ人間ではなく、ユーモアや諷刺の好きな、したたかな詩人であった、とのことに関し。──私もまた淵明がユーモアを解しない人間であったとは思いませんが、この《辞》の序文で読を弄するのは場ちがいと覚えます。
 もともと賦や辞の類は(その序文をも含めて)おうむね壮重雄渾典雅悲傷、いわゆる悲劇的な基調をもち、軽妙洒脱滑稽諷刺などのコミックな要素を含むことは、絶無ではないにしても、非常にまれなものと心得ます。《帰去来の辞》が作られるまでの十三年の長きにわたり、身は官途に心は田園養真の生活に、と二つにひき裂かれた断続的な苦い官吏生活を淵明は経験しております。その間における苦衷(苦しい胸のうち)は在官中に作られた詩に痛々しいまでに表れています。
 《辞》はその迷いを清算し、自己の本性に順う生活へ帰ろうという、淵明の生涯で最も重要な転機に際し、おそらくは自己の全人格を表出するつもりで、まじめに(この「まじめ」と一海教授の「マジメ」とは大いに内容を異にするようです)力をこめて作られたに相違ありません。当然、選びぬいた密度の高い言句を使用し、周到な推敲が重ねられたでしょう。そのような文章の中に辞任の心境を述べて、しっぽを巻いて逃げ出そうなどと、あまり上等でない冗句(失礼ながら私にはそう思えます)をもてあそぶ余地はないと存じます。ユーモアや諧諱の表出にはおのずから別の場がありましょう。
 数次にわたる離就職の過程において、淵明に酷似する私の体験からも、いかに意に添わない職場であろうとも、それを去るに際しては有終の美を全うしたく望むものであります。人性一片の誠心の催す所でしょうか。ここにおいてか『当斂裳宵逝』の「当」が効いてきます。「当」は、道理または義務として当然そうある、またはそうするべきだ、の意で「なお一年間、職務に精励すべきだ」と解すれば、「当」が最もよく生きます。
 その作品や閲歴から私が見得た淵明は、いかに酒好きとはいえ、酒を主たる動機として就任するような人物とは思えませんし、彼が持つ心の強さにしても、自らの辞任に際してぬけぬけと「すそをからげて逃げるにかぎる」などと放言する、ずうずうしいしたたかさとは全く質を異にする強さであったと愚考します。
 ただ一つの解釈だけが正しくて、他を容認する余地がないというのではなく、読者の素養、人生観、境涯、処世の体験さらには読者が著者をどう捉えているか、等によって数種の解が許され、読者は自分の心に最も穏やかに落ちつく解を選び得る所に、広く古典を読む面白さがあろうと存じます。淵明のような人生派もしくは生活派ともいうべき詩人については、特にこのことが顕著であり、『飲裳宵道』の句はその好箇の一例でありましょう。(同年、5月6日〈朝日新聞〉夕刊) 

〔付言〕  南史一
     【『詩伝陶淵明 付録』533-534pより転載】
 以上は〈朝日新聞〉(大阪本社版)文芸欄においてなされた往復討論の文である(ただし注は後補であり、またごく一部の字句を書き改めた)。
 私が『斂裳宵逝』の典拠を〈小星〉の「粛々宵征」にあえて求めたのは、「しっぽを巻いて逃げ出そう」という解は、淵明の代表作たる《帰去来の辞》のムードにそぐわないのみならず、他の淵明の諸作品また彼の履歴や伝記などから、私なりに形成した淵明の人間像に照らして、何としても肯(うべな)い難い、軽はずみな解のように思われるにもかかわらず、多くの類書が響きの声に応ずるがごとく、安易にこれに追随するのを見るに堪えなかったが故である。
 従って私は、この説を誤りとして「従来の解釈を正そう」と企てるものでは決してなく、より穏やかに落ちつく解釈への試みの一つとして私説を提示したに過ぎない。
 『斂裳』の語、私の見聞の範囲では淵明のこの《辞》以外には用例を見ないが、同じように衣服の一部を斂(おさ)めることを表す語として「斂袂」がある。〈史記〉や〈後漢書〉の用例では、この語の第一の意味は走るのに便利なように袂(たもと)をおさめることで、まさに『斂裳』の裾を(すそ)たくり上げるのに相当する。ところが「斂袂」のもう一つの意味として、袂をととのえて謹(つつし)むというのがある。この第二の義に準じて『斂裳』も謹んだ精神態度の現れとして、乱れた裳の裾をととのえるの意に解することもできるであろう。多くの用例があり淵明も詩中にそれを用いる「斂袵(れんじん)」の語も、袵(えり)もとを正し身なりを整えて謹むことをいう。これらの例を考え合わすと、『斂裳』の解としてはむしろこの第二の意がふさわしいかとも思われる。とすれば「謹んでしっぽを巻いて逃げ出す」よりも「謹んで夜も公務に従う」と解する方が穏やかに通じるであろう。
 中華民国(台湾)の黄仲崙は『斂裳宵逝』の句に注して「此、衣裳を整束し、悄々として[故]郷に還るを謂う」と注し、〈文選〉潘岳〈秋興の賦〉「且(しばら)く袵を斂め(斂袵)以て帰来せん」を典故として引く(<陶淵明作品研究〉)。この黄仲崙の注も『斂裳』を謹んだ心の現れと見る。元来『宵逝』をどちらの意味に解しても、「この一年間(一稔)勤務したのち郷里に帰ろうと望む」ことに変わりはない。問題は、その淵明の行為を良心的態度の現れと解するか、ユーモアのあるしたたかなふるまいと見るか、との点にある。従って黄仲崙の解ならば、『宵逝』の典拠を〈小星〉の篇に求めず、それを「郷里に帰りゆく」意に解しても穏やかに受け容れられ、私もあえてそれに異を唱えはしなかったであろう。 
 一海教授は、〈朝日〉紙上には発表されなかった文の中に、ご自身の立場と筆者の立場との相異を論じて、南氏がまず「事」を措定して「ことば」をそれに従わせようとするのに対し、私(一海教授)が「ことば」に従って「事」を見ようとする、そのちがいではないか、と言われる。あるいはそうであるかも知れない。文章が「文字」によって成り立つ限り、私とても決して「ことば」(文字)をおろそかにするものではないが、能うべくんば「言(ことば)」の正しい解釈とともに、全人的な体験をもって古典を解読し、「言」の奥にある真実に迫りたいと願うものである。
 

 単行本が出る8年も前に、在野の一社会人好事家にすぎぬ南氏が、如何なる伝手を以て新聞の文芸欄に斯様の文章を載せることができたのか、謎ではあります。が、両者のやりとりを虚心に読んだところ、南氏の見解にも相応の言ひ分があることを、殊に新聞には上すことの無かった最後の〔付言〕を読んだのちに私も認めたくなったのでした。一海先生の文章は著者生前に編まれた『著作集』には収められてをりません。 

 それなら肝心の本文はどうでしょうか。

 タイトルに「詩伝」とありますが、まえがきに「陶淵明の《帰去来の辞》を緯(たていと)とし、その詩文を経(よこいと)として綴った」とあるやうに、陶淵明の代表作である「帰去来の辞」一篇が、本書全体を貫く「緯(たていと)」として据ゑられています。それをバラバラに分割し、数行ずつ読み進んでは想起される別の詩篇や詩章がその都度に差し挟まれます。この引用部分を「経(よこいと)」と呼んでゐるのですが、解釈・考察が寄り道したあと再び「帰去来の辞」の次の数行へと立ち戻ってゆきます。引用は漢詩だけでなく和の古典、そして更にポ数を落したコラムを要所要所に加へながら、独特のスタイルを持して「帰去来の辞」を読み通し、同時に詩人の伝記的生涯をたどってゆくといふ、これを「詩伝」と呼んでゐるのであります。 

 独特なスタイルはもうひとつ、訓読です。前述の斯波六郎博士にもまして和文つまり意訳に傾いてをり、かつなるべく書き下し文だけで意味が通るやう[ ]で補足する配慮が施されてゐます。こちらこそ著者ならではのセンスが窺はれる一番の読みどころであると思はれます。

 解釈と考察は、論語・荘子・楚辞・詩経等の故事はもとより、先行する歴代研究者の意見についても、文献を引きつつ詳しく紹介され、漢字の解説が助辞にまで及ぶさまは、かの有名な漢文参考書、二畳庵先生の『漢文法基礎』の読書経験を想起させます。

 ただし巻末に索引はあるものの、詩章がバラバラにされた状態では、折角の訓読に注がれた営為も学術的な訳書として活用されることが想定されてゐるとは言へず、残念に思はれてなりません。 

 冒頭にこの人気詩人については実に多くの人の言及があると書きました。ならば先行するさきに挙げた名著に付された註記の数々を左見右見して、あたかも自家で調べたやうに書き綴ることも可能であるやうな気もします。一海先生も「南氏の引く傍証、典拠引用の方法、中国古典語の文法構造等にも言及するとすれば、かなりの紙幅がいる。」と、畑違ひの好事家に対して鷹揚に構へてをられますが、果たしてこれが何の肩書もない独学者の文章なのか――対する南氏も単なるディレッタントの域を超えた学識を感じざるを得ません。
 いくつか例を出せば、

 ①  全詩集でなければ訳者がパスする「扇上の画賛」のやうなマイナーな作品について、その一節、
 至矣於陵,養氣浩然,蔑彼結駟,甘此灌園。
至れるかな於陵,気を養ふこと浩然たり,彼の駟を結ぶを蔑(かろ)んじ,此の園に灌ぐ[の業]に甘んず。
と訓んで、隠士の於陵子を称へるのに孟子の言葉「浩然の気」を以てしたのは、老荘思想を軽視する孟子に対する批判の意を敢へて含ませるためにさうしたのではないかと書いてゐるくだり。(218p)

 ②  また「祭從弟敬遠文」の
斂策歸來,爾知我意,常願攜手,寘彼衆議。を
策(ふみ)を斂めて来たり帰れば,爾(なんじ)我が意(こころ)を知り,常に手を携えんことを願い,彼の衆(もろもろ)の議(ことあげ)を寘(置お)く。

と訓んで、「淵明の帰園をとやかく批判する衆議を度外に置いた。この『寘彼衆議』の一句は、淵明の帰園を否定的に批判する人が多かったことを物語るであろう」などと書いてゐるくだり(293p)。 

③  また、有名な無絃琴については、若くして亡くした「薄命の妻の思い出のこもった琴であったかも知れない。音律を解しない淵明は、それを弾じることがないままに、いつしかげん絃は断ち切れて取り去られ無絃となった、と解してはどうであろう(※性不解音、而蓄素琴一張、弦徽不具)」と想像逞しく書いてゐるくだり(304p)。 

④  また、「怨詩」のなかの一句「(責めは)己にあり、何ぞ天を怨まん」に、「淵明の人間を理解する上で逸することのできないこと」として、古来中国の人たちの精神態度に顕著な他責思考が彼にみられないことを指摘してゐるのは、さきに私がレビューを挙げた李長之『陶淵明(筑摩叢書1966年)原題:陶淵明伝論』のなかで著者が解説してゐたところの、当時の士族階級の人々にあった「風度」といふ精神風土を思ひ起こさせました(346p)。 

⑤  「田舎に懐古す」に於いては「即理愧通識:理に即しては通識(※道理の達人)に愧づるも」、「即事多所欣:事に即して欣ぶ所多し」、と離れて置かれた二句をみごとに並べ合せ、詩人の自恃が奈辺にあったかをみごとに言ひ表してゐます(364-365p)。 

⑥  そして「丙辰歳八月中於下潠田舎穫」に於ける「三四星火頽」の星火(火星)を鈴木先生が「心星」と記してゐるものの、はっきり蠍座のアンタレスであると釘を刺してゐるのは、さすがに理系のひと南氏ならではの註記と感じました(376p)。 

 ことほど左様に、特に中盤にかけて独創的な卓見から推論に至るまでが色々みつかるのですが、当否はさておき南氏が並々ならぬ文献踏査の閲歴の上に、詩人と対峙し、識見を養ってきたひとであることは疑いやうがないのです。 

 氏はくだんの論争に於いても、これまでの「説を誤りとして「従来の解釈を正そう」と企てるものでは決してなく、より穏やかに落ちつく解釈への試みの一つとして私説を提示した」と最後に記し、あくまで白黒つけることなく権威に対しては穏便に、しかもなほ自説を取り下げてもゐません。当の淵明自身が「好読書、不求甚解:好みて書を読めども、甚だしくは解することを求めず。(『五柳先生伝』)」といふ態度を表明してゐる詩人なのですから、ここはあくまでも落としどころを語る著者の誠実さと矜持とを称讃したく思ひました。 

 一般読者を念頭に書かれた、謹飭にして懇切な行文ですが、それは「富も名声も度外に置いた田園養真の生活140p」を成し果せた陶淵明に対する思ひの丈の顕れなのであって、つまりは出版社の都合や締め切りなど一切関係なく、著者が気の済むまで推敲を重ねた結果、込められた熱意のほどに私たち読者が唯々あてられ、私淑ぶりに圧倒される600ページ余を著者と共に過ごすことを意味します。

 ふんだんな傍証をもって書かれたこの本が斯界から無視された理由は、吉川幸次郎・一海知義といふ碩学に異を唱へたことよりも、詩篇の引用を縦横に行って文章を組み立ててゆくスタイルが、著者の詩人に対するまずありき人物像に沿った推論をもって主情(念ひ)に流れがちとなり、研究者には論文として認められ辛いものとなったからかもしれません。

 確かに参考文献を索引の中ではなく別に列挙しなかったのは学術書として不備なのでしょうし、孤り独自に研鑽を続けて来た彼が誰からの学恩も蒙らぬ専門外の出身であり、刊行も東京ではなく大阪からだったこと、更に言へば本としての装幀が世俗的に堕した一般書らしいデザインだったことさへも或ひは不幸に与ったかもしれません。(因みにさきに挙げた名著の3冊中、斯波六郎博士の本も地方出版社からの刊行(初版京都・再版九州)だったため今もって復刊されていません

  しかし30年といふ歳月をかけて書き上げた、生涯に一冊きり遺された浩瀚な本書は、宣伝用に付された「高度経済成長を支えるサラリーマン生活の傍ら研究を続けた著者の、還暦の果実」といふ一文が語るやうに、歴史に埋もれて割を食った詩人への判官贔屓をこととしてきた私にとって、その出会ひは只事ではありませんでした。

 書物が貴重だった当時、外祖父が遺した蔵書を読んで独習にいそしんだと思はれる陶淵明(333p)を、師を持たぬ「偉大なアマチュア詩人」と呼び(502p)、晩年に従って思索を深めざるを得なかった衰損生活を「あたかも現代日本の定年退職者の生活 (127p)」に重ね合はせもした南史一氏。その詩文に対するに「中国語や中国文学の専門家でない我々としては、この程度の味わい方で(※訓読の朗読ができれば)充分ではなかろうか。125p」と言挙げる著者に報ゆる一文として、本書の序文を、田中克己とおなじく今宮中学・大阪高校の先輩である同郷の文学者藤沢桓夫が書いてゐます。けだしこの本の性格を一等能く語ってゐるかもしれません。著者のまえがきと共に掲げて本書の紹介文といたします。
(さうさう、気に入らぬ表紙は家人が本書に相応しい布でブックカバーを誂へてくれました。)

  序文
 南史一氏の労作「詩伝陶淵明」がいよいよ上梓されると知り、私は大きな喜びを禁じ得ないでいる。それは私が著者生来の「好学」の資質を知り、またその中国文学への造詣の深さ見識の確かさが、素人の城を遙かに越えるとともに、その誠実で求道的な学習態度は近ごろ得難いものであることを私なりに理解し、かねがね敬愛の思いを南君に寄せて来たからに他ならない。
 早くから陶淵明という詩人に傾倒した南君が、本書の執筆を思い立ち、ついにその完成を見るまでに、三十年近くの歳月が流れた。調べ出したらとことんまで調べ上げずにはいられない南君の真摯な人柄が、彼自身に最も困難な道を選ばせたからに違いなかった。こうして五、六度も書き改めた後の原稿は、実に三千五百枚という浩瀚なものとなった。南君ならではの陶淵明研究の集大成であり、この時人に関するわが国最初の独創的で丹念かつ正確な成果といってよいであろう。この原稿を一冊の本に纏めるために、南君はこれを七百余枚の数量に整理する必要に迫られた。この作業はさぞ辛かったであろうと同情される。
 それにしても、南史一君は変わった文人である。泉南の名ある旧家の末に生まれた彼は、旧制の大阪府立今宮中学から大阪高校理科を経て、阪大物理学科に学び、時局のゆえに卒業してすぐ軍務に服したのち、母校の研究員、教職、会社の研究職等を経て、伯父さんが創設された大阪造船所に入社という経歴からもわかるように、明らかに理科系の人であった。それがいつからか陶淵明の魅力に取り憑かれ、停年を待たずに自分から退職、書斎の人になったのだから、変わり種もよいところだろう。もっとも、古い文化の伝統を持つ商都大阪には、むかしから商家に生まれて学問の道で独自の大きな仕事を残した先覚者が、富永仲基・山片蟠桃をはじめ幾人もいる。彼らは町人学者であることを自らむしろ誇りとしたが、南君も最も新しい型の町人学者の呼び名にふさわしい人であるかも知れない。
 また大阪の一流の実業人には、「衣食足りて礼節を知る」の譬えにそむかず、学者を尊敬し、自らも学問を愛した人が多く、南君の祖父南歓治郎氏、父君の南史郎氏、ともに私の祖父南岳が主宰した漢学塾「泊園書院」に学び、私の父の黄坡とも昵懇で、歓治郎氏の詩集に題して、「万斛の清香、隠士の家」と結んだ、老梅を詠じる七言絶句の詩のほかに、南家には父の書の軸が何本か所蔵されているという。それに加えて南君自身が、私もそこに学んだ今宮中学・大阪高校の後輩というのも何かの奇縁に違いない。
 この南君の大著が学界ならびに広く読書界に、爽やかな新風を吹き送ることを私は信じ期待している。
 昭和五十八年清秋
                 大阪住吉西華山房にて
                        藤澤桓夫

  まえがき
 この一篇は陶淵明の《帰去来の辞》を緯(たていと)とし、その詩文を経(よこいと)として綴った、人間淵明への参究の書である。
 陶淵明といえば高名の隠士、田園詩人、酒と菊、『帰りなんいざ』という句で始まる有名な《帰去来の辞》などを思い出し、杖をついて山水に遊び酒器を手にして野に想い、あるいは『菊を東の離の下に采り、悠然として南山を望む』風流人を、さらには「吾、豈(いか)でか能く五斗米の為に腰を折りて郷里の小人に向かわんや」とて、袖を払って官を去った痛快児を瞼に描かれるであろう。
 田園詩人、隠士――淵明は常にこう呼ばれ、まさしく彼は偉大な田園詩人であり、いわゆる隠士であった。しかし子細に淵明の詩文に参ずれば、彼の人間性は田園詩人や隠士というだけでは到底尽くしきれない豊かな多面性を内に含み、決して誤り伝えられるほどに放逸な酒徒でもなければ、社会に超然たる隠士でもなく、その人生観や生活態度は頗る誠実中庸、性格は暖かい人間味に溢れ、現代の我々にとっても予想以上に近い存在であることがわかる。
 そして彼のたぐい稀な詩文は、千六百年に近い時間の経過と数千キロにわたる空間の転たりをいささかも感じさせないばかりか、その詩の響きは二十世紀の我々の心をも強くえ、その人生は現代に対しても多くの示唆と教訓を含み、その思想は中国の本格的伝統を踏まえて今もなお新鮮であり、その意識は彼と時を同じくする古墳時代の我々の祖先よりも、むしろ現代の我々に近く感じられる。おそらく彼の詩文や人間の中に、自己の投影を見出す現代人は数多くあるにちがいない。
 これは淵明の詩文の才もさることながら、彼の生活、思想、そして人間としての素養が時間空間の距たりや埋め難い主義の対立などを超えて、いかなる時代、いかなる人々にも共通した、動かし難い人間の真実に涙するが故であろう。
 従来伝えられるような少しく一面的かと思われる淵明像に再検討を加え、現代にも通じる求道詩人として淵明を捉えつつ、陶詩の豊かさを味わい、彼に対する親愛の情を深めたい、という意楽(いぎょう)が本篇を草した動機である。もしさらに淵明を媒介として一般読者とくに若い方々の間に、古くて広くかつ深い中国文化への興味と関心を引き出すことができれば、本懐これに過ぎたるはない。
 今この稿が成るに際し敢えて言わせて頂けるなら、淵明の人間解釈について前人未踏の域を伐り開き、私にしか書けない淵明像を描き得たとのひそやかな満足感がないでもない。しかし此所までに至り得たのは、ひとえに数多くの先達の導きによるものであって、決して私一人の力だけに成るものではない。先人の恩、師の恩に厚く感謝しつつ自序の筆をおく。
 一九八三年晩春
                         著者

気に入らぬ表紙には相応しい布でブックカバーを誂へました。
原本カバー

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