『桃の会だより』57号
『桃の会だより』57号を拝受。久しぶりに誌上に拝見した野田安平氏の文章は、山川清至様の訃報(5月29日、享年92歳)を伝へるものでありました。
日本浪曼派の詩人山川弘至の弟君にて、実家のある岐阜県郡上市旧高鷲村の立派なお邸には、かつて詩人に関はる祭事があった折に、桃の会の者でない私も推参して御挨拶させていただきました。
戦歿した兄の遺志を祀り、文業を以て慕ひ続けた義姉京子氏に対する信愛はゆらぐことがありませんでした。彼女が主宰する歌会のもとに集った都会の人たちに対しても、文事をこととしなかった清至様は敬愛の念で接しられ、親族の先頭で温顔をもって迎へられるお人柄に、奥美濃ならではの人情を感じいたく感動したことなどなつかしく思ひ出してをります。
野田氏は追悼文のなかに、歌会時のあつまりの時にされた清至様の談話として、詩人の思ひ出のほか、兄亡きあと当主として家業を継ぎ、長年林業に携はり郷土の山林を守り通された御活躍など、私が初めて聞く貴重な逸話を、口調そのままに載せてお伝へ下さいました。その部分のみ掲げさせていただき、拙ブログにても偲びたいと存じます。
〈山川清至様のお話し〉
(平成15年5月24日夜、鷲ヶ岳高原ホテル新館レインボーにて。
『桃の会だより』57号「追悼山川清至様:山川清至様をお偲びして」野田安平氏の文章よりの抜粋)
昔、都の天皇の命を受けた藤原頼保が、長良川上流の美濃の山奥に住む大鷲を追ってやってきました。その故事から「鷲見(わしみ)」と言ふ地名ができます。承平五年に平将門の乱があり、平良忠が遁れてこの地にきて以来、さきにこの地を支配した藤原氏は長良川の左岸を、平氏が右岸に住み分けると言ふことになりました。この平氏を先祖とする山川家は、関が原の戦のとき石田三成勢についたことから、のちに遁れて今の切立明谷(きったてあかだに)に土着しました。
そこには、「さこ」といふ春分・秋分の日に山の尾根と尾根の間から太陽が昇るのが見られるところがあります。段になってゐる山間の田には2トンもある大きな石垣が並べてあるのは、その石に日の光が照り返して稲の生育がよくなるやうにとのことで、現在、当家の庭先に転がしてある大石も、近年、整地した際に重機で移動して記念に保存しとるものです。
江戸時代には香島姓を名乗りましたが、明治になり伊勢神宮の神官に相談して「山川」と改姓しました。平安時代以来三度改姓し、山川弘至で二十四代、私で二十五代となります。
兄弘至は大正五年九月十日生まれ。私は、昭和六年生まれですから十六歳の年の差です。私が四歳くらゐの時に兄は上京したので、ともに暮らした記憶があまりありません。しかし幼い私の頭を撫でながら「山川家が代々、農と医を業としたことを腹に修めて、お前はよく家を守ってくれ」と言はれたときの暖かい手の温もりを今でもよおく覚えとります。
東京の國學院大學へ行ってゐた間は山岳部にもゐましたので、蔵王のスキーや葉山の海水浴なども楽しかったやうですが、故郷のことが最高に良いと思ってゐたのではないかと思ふとります。帰郷するといつも、近所の少年たちを連れて川へ水泳に行きました。今でも村の古老は、「清至さんの兄さんは、水泳や魚取りが好きやったで」とよく言はれます。とった魚はどんな大きなものでも、ついて来た少年たちにみな分け与へとりました。
また、兄は盆踊りの郡上踊りが好きでした。私とは違って男前の兄はもてたもので、高鷲の女性からそれは持て囃されとりました。
私は明谷のことを忘れずに過ごしてゐた優しい兄が好きで、いつも父母に「兄さん、いつ帰ってくるよ。いつ帰ってくるよ。」と聞いてゐました。それは兄が帰る時に持って来るお土産が嬉しかったからでもありました。いつも本を買って来てくれました。「太平記」や「平家物語」、「レ・ミゼラブル」、「マルコポーロと少年たち」など、また著名人の書物を買ってくれました。おかげで、田舎にゐても私も幅広く学ぶことができたと思ふてをります。
兄が生まれたのは郡上八幡の母の実家、常盤町の青山家でして、青山の祖父は、「弘至は立派な子にせなならん」と、いつも可愛がって背におぶっとったさうです。「どんな可愛い子か見せてくれ。」と言ふてはいろいろの人が来たさうです。
その兄が三歳のとき、八幡町で大火がありました。このときはかの折口信夫先生がお見舞ひに来られた話が有名ですが、祖父の背中で兄が涙ぐんで大火を見てゐたらしいです。
兄が八月のお盆の前後の休みに、びょうろと言ふ所から上がる月の青さに感激して眺めとったことがあります。大きな柿の葉陰から洩れる月影のことを喜んで何かに書いとります。
私としては短い間の兄の思ひ出ですが、兵隊になってからの兄はもっと厳しい話をするやうになったと思ひます。「時勢に流されて方向を誤ってはならぬ。千人に一人の立派な人間になれ」と諭されました。
その兄の亡きあと、やがて私は家を継ぎ山を守り、林業一筋に五十年頑張って来ました。山川家は長男を亡くしたうえ、農地解放があり、満州開拓団引揚者の方々のために未墾地買収されなどもしました。兄の負託に答へられたかどうかわかりませんが、今では全国林業連絡協議会の常任理事をし、岐阜県林業連絡協議会の会長もやらせて戴いとります。
現在は地球温暖化が心配され、環境のため林業は重要とされてゐます。都会の憩ひでもある治山治水が地球温暖化の抑止にも繋がります。弥生時代には寒くなって八幡以南に人は移住したらしいですが、その後、人はこの地に戻ってきたらしいことがわかってゐます。明治になって四つの村が合併してできた高鷲村には石器時代の遺跡が二箇所あります。
昭和四十二年には観光開発が始まり、蛭が野高原にスキー場もできました。観光開発で村の財政もよくなるとともに、高原でとれる大根は特産品ですし、酪農も盛んになってゐます。桃の会の皆様には、弘至兄の歌碑の建つ高鷲へ、京子お姉様と御一緒にこれからも折々に訪れて戴きたいと思ふてをります。
私とはこのお話ののち平成17年、地元詩人探索中の照会に始まる御縁となりますが、記念館増築に係る資料収蔵について、一図書館員として差し出口いたした頃のことなど、竣工したばかりの新館や背戸山に並び建立された両つの歌碑、それらを満足げに仰がれる京子様・清至様お二方の慈顔とともに思ひ出されます。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【追記】
御子息が県病院脳外科の国手であり今春郡上市の市長となられたことも、地元にありながら気が付きませんでした。記念館の維持については、特に資料保存の観点から現在の建物や体勢でこの先も大丈夫なのか心配もありますが、文教行政は観光資源(お金)にならないものにはなかなか目が行き届かないといふのが実情です。幸ひ市長の所信表明には「郡上の特色ある文化・教育について」として「ふるさとを大切にしたいと思う郡上学の実施、貴重な文化財の保護と効果的活用、伝統文化や伝統芸能の継承」が掲げられ、志とざされた亡伯父の為に何らかの手立てが施されるのではないかと期待するところです。