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わたくしの宮沢賢治童話研究2024年

『注文の多い料理店』刊行から100年を記念して童話をわたくしの観点から読解しました。読めば読むほど楽しくなるのが賢治さんの童話です。次の100年に読み継がれることを願いながら。
 
 
 
1.「雪渡り」
 
大正10年『愛国婦人』12月号と大正11年『愛国婦人』1月号に発表。小狐の紺三郎と人間の少年(四郎)少女(かん子)との出会い。歌(言葉遊び)を通して接触。幻燈会(スライド上映会)に招待される。狐小学校の幻燈会に参加する条件は11歳以下の子どもだけの場合に限られる。三人の兄たちに見送られる四郎とかん子。土産に餅を持参。上映会の合間に出された黍団子(きびだんご)を食べる四郎とかん子。狐たちは人間に信用された事を大いに喜ぶ。人間界と狐界の和解につながるような出来事となる。12歳問題。狐たちはなぜ11歳以下に限定したのか? 人間たちはなぜ狐を悪者にしてきたのか? 異界への偏見を打ち破るのは童心。大人への道は異界への扉を閉じてしまう。擬人化の効果。狐の世界と人間の世界はそれほど変わらないということを示している。相互に信頼することの大切さ。歌や言葉遊びや芸術が媒介となっている。物語全体がミュージカルのような展開になっている。
 
 
2.「やまなし」
 
大正12年『岩手毎日新聞』4月8日号に発表。お話は二つに分かれている。一は「五月」で二は「十二月」というタイトルが付いている。語り手はそれらを「二枚の青い幻燈です」とあらかじめ云う。「五月」では蟹の兄弟が言葉遊びをしている。魚が泳いでいる。鳥が魚を襲う場面を蟹の兄弟が目撃する。こわい体験。蟹の父親が出てきて慰める。外は花の咲く美しい季節でもある。「十二月」では蟹の兄弟は泡の大きさを比べっこして遊んでいる。黒い大きな丸いものが落ちてくる。鳥だと勘違いする兄弟。父親がよく見てそれが「やまなし」であると云う。恵みの体験。やまなしは二日もすれば自然に沈んでくると父親は教える。外は実のなる季節になっている。終始蟹の視点で描かれた二枚の幻燈。まるで蟹として生活したことがあるかのように書かれている。童話「やまなし」は作者に云わせると二枚の幻燈である。そして「雪渡り」という話には幻燈会が出てくる。幻燈という装置は心象スケッチという方法とつながりがある。写真や映画は画像や音声を記録する。文字だけでそれをするのが心象スケッチ。
 
 
3.「氷河鼠の毛皮」
 
大正12年『岩手毎日新聞』4月15日号に発表。イーハトヴ発ベーリング行の汽車の中の出来事。12月26日の夜。毛皮を自慢する肥った紳士。その様子を見ている怪しい赤髯の男。黄色い上着の船乗りの青年。紳士が自慢する外套の種類:ラッコ裏の内外套・海狸(ビーバー)の中外套・黒狐表裏の外外套・氷河鼠の毛皮(参考:ジョバンニのお父さんはラッコの上着をお土産に持ち帰ると噂されている)。朝になって事件が起こる。汽車が止まる。ピストルを持った赤髭の男と白熊たちが乗り込んでくる。毛皮自慢の紳士を連れ去ろうとする。船乗りの青年が助けに入る。赤髭の男を人質に汽車を元通り動かせるようにする。青年は赤髭の男を放しピストルも返す。これらの話は風が飛ばしてよこしたものだという。「雪渡り」では11歳以下の児童が狐たちと麗しい交流を行った。「氷河鼠の毛皮」では毛皮を上着として利用する人間たちと毛のある動物たちとの対立を描いている。このテーマは宮沢賢治童話の通奏低音であると云ってもよい。汽車の中で繰り広げられるという点が「銀河鉄道の夜」を思わせる。「鳥捕り」あるいは「ジョバンニの父」と「肥った紳士」の類似性。作者は人間界と畜生界の間に立っている。メッセージとして双方の幸福を求める道はないのかと訴えかけてくるものがある。
 
 
4.「シグナルとシグナレス」
 
大正12年『岩手毎日新聞』5月11日付から11回に分けて発表。そのため(一)から(十一)までのパートに分けられている。本線の信号機であるシグナルと軽便鉄道の信号機シグナレスの恋愛。擬人化が動物ではなく電信柱や信号機などの無機物にまで適応される。「氷河鼠の毛皮」とは鉄道つながりである。またシグナルとシグナレスは夢の中で夜空の星の世界に行く。そしてそこに海がある。このくだりはジョバンニとカムパネルラが白鳥の停車場で過ごす場面を思わせる。無機物も恋愛するという考え方自体があまりにも切ない。
 
 
◇これまでの四篇のまとめ 
 
角川文庫の『セロ弾きのゴーシュ』に収められている小倉豊文氏の解説によれば「雪渡り」「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」の四篇は童話集『注文の多い料理店』に収められた諸篇と同時期に完成した作品群であると云う。『注文の多い料理店』出版が大正13年12月であるから「雪渡り」は3年前に他3篇は1年半前に世に問われた作品という事になる。作者に何か計画があったのだとすればこれら四篇はイーハトヴ童話の性格がどのようなものであるかを広く知ってもらうために周到に用意された自信作だったと考えてもよいだろう。大正10年の家出の時に大トランクいっぱいに書き溜められた童話たちの中から厳選され推敲され完成したいわばリード曲のごとき童話作品だ。
 
 
5.「かしわばやしの夜」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。順番としては7番目のお話だがスケッチされた日は1921年(大正10年)8月25日で『注文の多い料理店』の中では一番古い。「清作」と「画かき」と「柏の木大王」のやりとりが中心になって物語は進行する。柏の木が人間のように動いたり喋ったり歌ったりする。柏の木たちは「画かき」のことは好きだが「清作」のことを嫌っている。「画かき」は木や林を美しく描くだけで自然を壊さない。「清作」は木こりとしてこれまでに九十八本の木を倒している。後半は柏の木々が歌合戦をする。歌の中で「清作」のことを揶揄する。ちなみに童話「雪渡り」でも「清作」という人物が酔っ払って野原のそばを十三杯食べたと歌われている。歌合戦にふくろうも参戦する。最後はみなで歌って踊って盛り上がるが冷たい霧がおりて散開となる。対立する柏の木(植物)ときこりの清作(人間)を仲介するのが画かき(芸術)であるというのがいい。画かきの特徴:赤いトルコ帽。鼠いろのへんなだぶだぶの着物。靴を履いている。むやみに背が高い。目が鋭い。「風の又三郎」に登場する転校生高田三郎の特徴を参照すれば《変てこな鼠いろのだぶだぶの上着を着て白い半ずぼんをはいてそれに赤い革の半靴をはいていた》とある。それに顔もりんごのように赤く髪も赤い。画かきと又三郎になにか関係があるかもしれない。
童話「かしわばやしの夜」と「風の又三郎」の比較。「かしわばやしの夜」で柏の木大王が最後に歌ったうたが《雨はざあざあ ざっざざざざざあ 風はどうどう どっどどどどどう》であった。「風の又三郎」の冒頭には《どっどど どどうど どどうど どどう》とある。「かしわばやしの夜」の導入部に《白樺の幹などもなにか粉を噴いて》という描写があり結びの一行には《「赤いしゃっぽのカンカラカンのカン。」と画かきが力いっぱい叫んで》とある。「風の又三郎」の第一日目の話で転校生高田三郎の父親は《白い扇をもって》いて結びの第十二日目の話で先生は《赤いうちわをもって》とある。これは宮沢賢治童話における「赤と白のテーマ」を象徴しているようにわたくしには思える。《ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか》。これは「銀河鉄道の夜」の冒頭に出てくる先生の言葉だ。そして結びのパートではジョバンニが夢から目を覚ますと南の夜空に《蠍座の赤い星がうつくしく》輝いている。赤と白。
 
 
6.「月夜のでんしんばしら」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。順番としては8番目のお話だがスケッチされた日は1921年(大正10年)9月14日で『注文の多い料理店』の中では二番目に古い。線路に並ぶ電信柱たちが軍歌を歌いながら行進するのを恭一という人物が目撃する話。擬人化が無機物にまで適応されるのは「シグナルとシグナレス」と同様である。「シグナルとシグナレス」は人間が顔を出さない世界であったが「月夜のでんしんばしら」の方は人間がその世界と交流する。「月夜のでんしんばしら」には不思議なじいさんが登場する。黄色い顔で背が低く握手すると電流が流れる自称「電気総長」。ぼろぼろの鼠いろの外套を着ている。「風の又三郎」の高田三郎や「かしわばやしの夜」の画かきも鼠いろの服を着ていた。この「電気総長」がでんしんばしらの軍隊を指揮している。「電気総長」の台詞からでんしんばしらが行進するのを見ることは本来許されていないということが知れる。ではなぜ恭一はその異界に紛れ込んだのか? これは恭一の幻覚なのだろうか。
 
 
7.「鹿踊りのはじまり」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。順番としては9番目のお話だがスケッチされた日は「月夜のでんしんばしら」の翌日1921年(大正10年)9月15日である。冒頭《夕陽は赤くななめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました》とある。赤と白のテーマ。主人公は農民の嘉十。嘉十が忘れた手拭に興味を示した六匹の鹿をそっと林の陰から観察するお話。人間が鹿の世界に入り込むという点では人間が狐の世界と交流する「雪渡り」と通じている。「雪渡り」で子狐紺三郎が《鹿の子もよびましょうか》と云ったあと《あいつは臆病ですから》と云う場面があるがこの鹿が「鹿踊りのはじまりに」に登場したと考えることもできる。登場する鹿は六匹ともひどく臆病である。作者が鹿を六匹にしたのは「鹿野苑(ろくやおん)」と関係があるかもしれない。「鹿野苑」は釈迦が最初の説法を五人の修行仲間にしたとされる場所のこと。合計六人で六が出てきたか。あるいは「ろく」という音との関連か。
仏教のはじまりとしての「鹿野苑」と鹿踊りのはじまりにおける六匹の鹿。嘉十の「十」を十界の「十」と考えても面白い。「鹿踊りのはじまり」が畜生界の中の十界を観察してよろこぶ話だとすれば嘉十の名前にも必然性があることになる。
 
 
◇宮沢賢治の手紙
 
童話を大量に創作していた大正10年に宮沢賢治がどんなことを考えていたかを知る手がかりとして書簡の文面に目を通しておくことは無駄にならないだろうから少し引用しておく。『宮沢賢治全集9書簡』(ちくま文庫)を参照。
大正10年7月13日関徳弥あての手紙には《図書館へ行って見ると毎日百人位の人が「小説の作り方」或は「創作への道」といふやうな本を借りようとしてゐます。なるほど書く丈けなら小説ぐらゐ雑作ないものはありませんからな。うまく行けば島田清次郎氏のやうに七万円位忽ちもうかる、天才の名はあがる。どうです。私がどんな顔をしてこの中で原稿を書いたり綴ぢたりしてゐるとお思ひですか。どんな顔もして居りません》とあり《これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です。いくら字を並べても心にないものはてんで音の工合からちがふ。頭が痛くなる。同じ痛くなるにしても無用に痛くなる》とある。
大正10年8月11日関徳弥あての手紙には《私のあの童謡にあんな一生懸命の御批評は本当に恐れ入ります。どうか早く生活の安定を得て下さい。いゝものを書いて下さい。文壇といふ脚気みたいなものから超越してしっかり如来を表現して下さい》とある。
大正10年12月保阪嘉内あての手紙には《しきりに書いて居ります。書いて居りまする。お目にかけたくも思ひます。愛国婦人といふ雑誌にやっと童話が一二篇出ました。一向いけません》とあり《学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。けむたがられて居りまする。授業がまづいので生徒にいやがられて居りまする》とある。
「鹿踊りのはじまり」に登場する嘉十について保阪嘉内の「嘉」を取ってきたという説があっても良い。宮沢賢治と保阪嘉内は学生時代に文芸や演劇を共に創作してきた親友である。大正10年における二人の関係は離れて暮らしていたとしてもとても良好だった。云いたいことが云い合える仲だった。「嘉内」と「大正十年」とを合わせて「嘉十」。
宮沢賢治と保阪嘉内との関係については多くの先行研究が残されている。以前その文献に目を通していて保阪嘉内からの手紙がほとんど残っていないことについてわたくしは大きな勘違いをしてしまった。それは宮沢賢治の側の思いが強すぎて保阪嘉内がそれに対応できないことによるものだったのではないかという邪推。しかしよくよく宮沢賢治の手紙を読めば保阪嘉内からも積極的な応答があったことがわかるしその数も同じくらいの量があったのではないだろうか。保阪嘉内からの手紙が読めないのは戦災が原因なのであってむしろ宮沢賢治の書簡がこれだけ多く残されたことの方が奇跡的なのであり保阪嘉内の友情の賜物に他ならない。
大正7年5月19日保阪嘉内あての手紙には《ねがはくはこの功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仝じく仏道成就せん。一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ》とある。また《保阪さん。あなたが東京で一心に道を修して居る中には奇蹟めいたことが起ることもありませう。けれども一寸油断すると魔に入られます》とか《魔の説く事と仏の説くこととは私共には一寸分りませんでせう》などとある。
大正7年6月27日保阪嘉内あての手紙には《私は前の手紙に楷書で南無妙法蓮華経と書き列ねてあなたに御送り致しました。あの南の字を書くとき無の字を書くとき私の前には数知らぬ世界が現じ又滅しました。あの字の一一の中には私の三千大千世界が過去現在未来に亙って生きてゐるのです》とあり《保阪さん。諸共に深心に至心に立ち上り、敬心を以てかの赤い経巻を手にとり静にその方便品、寿量品を読み奉らうではありませんか》とある。
《方便品、寿量品を読み奉らうではありませんか》と宮沢賢治は保阪嘉内に手紙を書いて折伏を実践している。法華経は前半14品を迹門と呼びその中で方便品を最重要のものとし後半14品を本門と呼びその中で寿量品を最重要のものとする。こういう知識を持っていた宮沢賢治の法華経に関する本気度はハンパない。童話「ひかりの素足」には《「にょらいじゅりょうぼん第十六。」というような語がかすかな風のように又匂のように一郎に感じました》とある。地獄を彷徨う兄弟が救われる場面である。
大正8年4月保阪嘉内あての手紙には《畑を起したり播いたりもして見ましたし便利瓦といふものを売って見たり錦絵が面白くなって集めたり結局無茶苦茶です。なんにも云はんで下さい》とあり《東州斎写楽はあまり鋭く人を図写し過ぎ時の人が淋しく思ひ自分もいやに思ひさびしく死に、それから五十年かたって遠いフランスの画家達がその作品に驚嘆してゐるさうです》とある。銀河鉄道の父は案外冷たいそして厳しいまあ賢治のデクノボーぶりがひどかっただけなのだろうけど。
大正8年8月20日前後保阪嘉内あての手紙には《私の父はちかごろ毎日申します。「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまはすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはたうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。」》とある。《おゝ、邪道 O,JADO! O,JADO! 私は邪道を行く。見よこの邪見者のすがた。学校でならったことはもう糞くらへ》とついにキレる宮沢賢治。
大正8年秋(あるいは7月)保阪嘉内あての手紙には《私は実はならずもの ごろつき さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長 ごまのはひの兄弟分、前科無数犯 弱むしのいくぢなし、ずるもの わるもの 偽善会々長 です》とあり《たゞ流れよ。流れよ。質屋の店には利慾と戦ひ、明るき社会の表に立ちては名誉と戦ひ、もはや私は私の性質が斯くなるを以て斯すれば最その長所を発揮すと考へるのはあきました。われは矛盾自身なるが故に両極端の混合体なるが故に転々 戦ひ流る 流さる》とある。虚栄心がひっくり返り優越感が転倒して修羅の極みでこわれる宮沢賢治。
大正9年2月頃保阪嘉内あての手紙には《久しぶりでお便りいたします 今日はおはがきをありがたうございました あなたはお互に遠くはなれたと感じてお出でですか。私にはさう思はれません。はなれてゐたと云へばはじめからです》とあり《いつになったら私共がえらくなるでせうかとあなたは二様にも三様にもとれるやうな皮肉を云ってゐられますが比較的にえらくなるやうなことは考へません》とある。完全にいやな奴になってる宮沢賢治。
大正9年6月〜7月保阪嘉内あての手紙には《お互にしっかりやらなければなりません。突然ですが。私なんかこのごろは毎日ブリブリ憤ってばかりゐます》とあり《どうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします》とあり《机へ座って誰かの物を言ふのを思ひだしながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります》とある。もはや危ない人になっている宮沢賢治。
さらに大正9年6月〜7月保阪嘉内あての手紙には《私は殆んど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合せます。人間の世界の修羅の成仏》とある。十界にはそれぞれ十界がそなわっているから人界の中に修羅界もあれば修羅界の中に仏界もある。否定的な自己の中に肯定すべき本当の自分を見つめている宮沢賢治。
大正9年12月2日保阪嘉内あての手紙には《今度私は国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。従って今や私は田中智学先生の御命令の中に丈あるのです》とある。このあと保阪嘉内に国柱会への入会を強く勧めていくことになる宮沢賢治。
 
 
8.「どんぐりと山猫」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。スケッチされたのは「鹿踊りのはじまり」から四日後の1921年(大正10年)9月19日である。宮崎駿さんはこの童話が「となりのトトロ」の発想源であると云っている。おかしなハガキが届くことではじまる「どんぐりと山猫」は一郎という少年があっという間に異界と交流する話である。ハガキには《かねた一郎さま 九月十九日》とある。これはこの童話がスケッチされた大正10年9月19日の事でもあるだろう。《あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです》と続く。誤字と脱字がわかりやすくある。読み手はこの文章を「ごきげんよろしいようで、けっこうです」と頭の中で読み替えている筈である。《あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい》という箇所の「めんど」も「めんどう」と読んでいるだろう。《とびどぐもたないでくなさい》については「飛び道具」つまり鉄砲などを持って来ないようにという注意であるとわかって思わずクスッと笑ってしまう。《山ねこ 拝》とあるので読み手は山猫の知能レベルがそれほど高くないということをここで予測する。しかし読み進むと実はこの手紙が代筆されたものであることが知られる。このハガキは山猫の家来である馬車別当が書いたものである。別当が人間なのかどうかは定かでない。一郎はなぜか別当の扱いに初めから馴れている。山猫はもう少し大人びている。森で裁判を司っている。案件はどんぐりたちの誰が一番えらいかの争いである。どんぐりが言葉を話す世界である。その不思議に一郎は少しも驚いていない。
 
 
9.「狼森と笊森、盗森」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。
スケッチされたのは1921年(大正10年)11月X日である。
狼森=オイノもり
笊森=ざるもり
盗森=ぬすともり
このお話は黒坂森の巨きな巌から聞かせてもらった話であるとのこと。
四人の百姓とその家族らがこれらの森に囲まれた野原にやって来てそこを耕し新しい生活の場を作るという昔話。百姓たちはそこで何かをするたびに大声で森たちにお伺いを立てる。すると森は「いいぞぉ。」「ようし。」などと応えてくれる。まるで人がみなシャーマンであるかのような世界だ。
事件が起こるたびに森へでかけていく百姓たち。そして狼や山男などとうるわしい交流をする。そして百姓たちは粟餅をこしらえて森にプレゼントする。その様子を岩手山があたたかく見守っている。こうした村の発展の歴史を巌から聞いたと語り手は云う。語り手もまたシャーマンである。
 
 
10.「注文の多い料理店」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。スケッチされたのは1921年(大正10年)11月10日。この作品が表題作になった。登場人物の二人の若い紳士は東京からやって来て趣味で狩りを楽しもうと山奥に入ってくる。しかし入りすぎた。獲物も獲れず腹が減る。あるはずのない場所にレストランがある。二人は動物に逆襲される。
「注文の多い料理店」を読むということには現代人の傲慢について考えを巡らせる作用があるように思う。人間は鉄砲を使って何をしようと云うのか。命を娯楽の手段にしてタダで済むとでも思っているのか。「どんぐりと山猫」の冒頭で《とびどぐもたないでくなさい》と山ねこは一郎宛ての手紙に書いた。
「とびどぐ」を持って山に入って来た紳士たちは山猫軒という名のレストランで逆に食べられようとしている。このアイロニーで作者は人間の大人の傲慢さにズドンと風穴を開ける。鉄砲はやがてミサイルに。そして核兵器へと繋がっていく。その傲慢に。
21世紀における「注文の多い料理店」はあらゆる暴力に対する動物たちからの異議申し立てとして読まれてよい。ここでまたジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』を読み返したくなる。家畜化されなかった動物たちについて考えを巡らせる。山猫もまたその代表か。
小森陽一『最新宮沢賢治講義』(朝日選書)から引用します。
《欧米から移入した最新鋭の「鉄砲と弾丸」=近代兵器で武装した明治日本は、日清・日露という二つの戦争に勝ち、その間ではイギリスと日英同盟を結ぶにいたったのです》239頁。
《イギリスとヨーロッパが世界の中心から脱落した第一次世界大戦の末期、産業資本主義的な経済システムと帝国主義的な政治システムを打倒する形で、1917年にロシア革命がおこり、世界最初の社会主義国として、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生した》240頁。
《それに対する干渉戦争が展開され、日本も1918年にいわゆる「シベリア出兵」をアメリカの提案に乗じる形で行い、1921年、「注文の多い料理店」が書かれる頃には、シベリア東部を勢力圏におこうとした日本とアメリカの対立が激化》240頁。
《日本の大陸進出に歯止めをかけようとするアメリカの大統領ハーディングの主張により、ワシントン会議が開催されるにいたる》240頁。
「注文の多い料理店」が書かれた時代の国際情勢。『注文の多い料理店』が刊行された1924年という年はアメリカで移民法が改正され実質的に日本人の移住は認められない事態となった。その後の日本とアメリカの関係が悪化する遠因になったとする見方もある。
《「イギリスの兵隊のかたち」をした紳士たちが模倣しようとした対象は、貴族たちの肉食の欲望につき動かされながら、世界を「鉄砲」によって植民地化していった、17世紀以後の大英帝国イギリスの支配階級の在り方だった》246頁。
《明治維新後の日本に「西洋料理」を模倣的に持ち込んだのは岩倉使節団を構成した薩長藩閥政権の高級官僚たちであり、やがて彼らは明治の新しい身分制度である「華族令」によって欧米を模倣した「日本」の貴族になっていった》246頁。
《その意味で「西洋料理」という言葉を屹立させることによって、「注文の多い料理店」は、「兵隊と鉄砲」による、侵略と植民地主義の歴史を一気に記憶の底から呼び醒ます力を発揮するのだ》246頁。
 
 
11.「烏の北斗七星」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。スケッチされたのは1921年(大正10年)12月21日。擬人法が見事な作品である。烏(カラス)の群れを軍隊に擬している。擬人化というよりも擬軍人化といった方が良い。戦争を童話で扱うという難しいテーマでありながらカラスの動きを細かく描写することで面白くしている。カラスたちにも信仰がある。マジエル様(北斗七星)が信仰の対象。次のカラスの少佐のつぶやきはまことに重要である。《ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません》。この祈りはその他の宮沢賢治童話作品に変奏しながら繰り返されていく。
 
 
12.「水仙月の四日」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。スケッチされたのは1922年(大正11年)1月19日。この頃賢治さんは「雪渡り」を雑誌に発表したり詩を書き始めたりしている。童話集の中でもひときわ美しい描写が続く作品。擬人化された吹雪と雪の中で倒れてしまう子どもの話である。低気圧の化身ともいえる雪婆んご(ユキバンゴ)とその手下である雪童子(ユキワラス)三人さらにその部下の雪狼(ユキオイノ)九匹で構成された吹雪のチーム。雪婆んごは大風を担当し雪童子は雪を降らせそして雪狼はそれをかき回す係である。吹雪一つにこのような役割分担があると観る賢治さんの発想はまことに特異である。子どもはひとりで雪丘を歩いている。そして赤い毛布(ケット)にくるまっている。一面白い雪の世界に赤が一点。赤と白のテーマがここにもある。白は死の世界。赤は命の象徴。「水仙月」というネーミングがまた美しい。霜月や神無月のように水仙月という独自の名前を案出した。天沢退二郎さんは注解で四月を推定している。『春と修羅』第一集には1922年1月9日「日輪と太市」というスケッチがある。そこには《吹雪も光りだしたので 太市は毛布の赤いズボンをはいた》とある。この童話の中の子どもが太市である可能性は大きい。天界の衆生である雪婆んごたちは情け容赦ない。子どもがそれで亡くなっても良いと思っている。しかし雪童子のひとりはその子を好きになって助かればいいと思う。同じ天界でも善悪が混ざっている。このテーマはのちの作品「ひかりの素足」でより深く展開されることになる。
 
 
13.「山男の四月」
 
大正13年12月刊『注文の多い料理店』収録作品。スケッチされたのは1922年(大正11年)4月7日。その翌日4月8日には『春と修羅』第一集の表題作「春と修羅」がスケッチされている。山男は「狼森と笊森、盗森」にも登場したがここでは彼が主人公である。実に牧歌的な作品。町に出た山男は六神丸を売り歩く支那人に騙されて薬を飲んでしまう。そして自分が六神丸にされてしまった事に気が付く。山男の心の動きが面白い。「畜生」と云って悔しがったり支那人が困っているのを哀れんだり自分と同じように六神丸にさせられた人間たちを助けようとしたり。この童話と『春と修羅』第一集に収められている「真空溶媒」という作品には関連がありそうだ。どちらも幻覚を楽しむ態度で書かれている。


関連考察

心象スケッチ『春と修羅』を4月にイーハトヴ童話『注文の多い料理店』を12月に刊行した1924年。公私共に充実した一年を過ごした100年前の宮沢賢治。芹沢俊介さんの考察を参照しながら思索を始めましょう。参考文献は芹沢俊介『宮沢賢治の宇宙を歩く』(角川選書)。
芹沢俊介さんは童話「注文の多い料理店」を劇として読むことを提案しています。舞台上の若い紳士たちのセリフを聞きながら物語を理解する。「8時だヨ!全員集合」を観るように。観客の子どもらはハラハラドキドキ。周りにいる大人はクスクス笑ってこの二人の様子を眺めている。長さんと高木ブーさん。山猫のレストラン側にはカトちゃんと仲本工事と志村けんが控えていて紳士役の長さんとブーさんに色々いたずらを仕掛ける。そういう映像が「注文の多い料理店」を読んでいると自然と浮かんでくる。ドリフの笑いにはぴったりのシナリオである。洋服を少しずつ脱いでいく二人に爆笑する観客たち。
「注文の多い料理店」がスケッチされたのは1921年11月10日です。この年大正10年の賢治さんは1月に家出して上京し国柱会で奉仕活動しながら童話をたらふく書いてトランクいっぱいにし8月に帰郷。自作の短歌をまとめたり詩の創作を始めたりクラシックレコードに熱をあげたりしている頃の事でした。
国柱会の高知尾智耀の証言によれば《国柱会の二階の舞台でよく劇をやったので、賢治君もそれを見たようです。のちに清六君をつれて見にきたこともあったそうです。田中先生は劇を教化の方法として積極的にやられた方ですから》と。堀尾青史『年譜宮澤賢治伝』(中公文庫)155頁より。
大正10年の国柱会での活動が演劇という方法に対する興味を賢治さんに喚起した可能性は十分にある。教師になってから生徒たちに自分で作った劇を上演させたりしている事もここに因がありそうだ。確かに「注文の多い料理店」は芹沢俊介さんが考えるように劇にしやすい作品の一つである。
1923年5月25日県立花巻農学校の創立記念日に賢治さんは昼夜2回自作の「植物医師」「飢餓陣営」の劇を講堂で上演したと年譜にあります。また1924年8月10日と11日花巻農学校で「飢餓陣営」「種山ケ原の夜」「ポランの広場」「植物医師」の劇を上演したと年譜にあります。「植物医師」はもともとセリフは英語でアメリカが舞台だったそうです。生徒たちの英語上達のために賢治さんは創作したが農学校の生徒たちにはまだ無理だったらしく日本語に変えて上演。その時の原稿は失われている。翌年改作して上演したものが残されている。注目すべきは「種山ケ原の夜」という作品。新潮文庫の『宮沢賢治万華鏡』に収録されていたので目を通してみたがシュール過ぎて当時の人は面食らったに違いない。ただし旧友の阿部孝など一部の人たちからは大変に評判が良く賢治さんにとっても自信作だったようです。「種山ケ原の夜」の劇中歌「牧歌」の作詞作曲は賢治さんです。単独でもよく取り上げられている。草野心平さんも歌っている。大好きな手嶌葵さんも。
「種山ケ原の夜」という劇を現代風にアレンジすると宮崎駿監督の映画『もののけ姫』になるかもしれません。もちろん『もののけ姫』には「注文の多い料理店」や「どんぐりと山猫」や「鹿踊りのはじまり」などの要素も感じるわけですが物語全体のムードは「種山ケ原の夜」がピッタリと重なります。ジブリはこの「種山ケ原の夜」を男鹿和雄さんの監督でDVD化しています。これを観ればジブリ作品の源流が宮沢賢治の世界にあったという事がよく理解できると思います。紙芝居の延長として作られているDVDだから尚更それを強く感じるのかもしれません。賢治さんはこれをまず演劇として上演した訳です。
《人間も動物も植物も、あらゆる生きものが同じレベルにいるような、さらには、生きものだけではなく、魂や死者も同じレベルにいるような、そして、そこでお互いが話ができ心が通じ合えるような世界を作品のなかで構成していく》54頁のが賢治さんの方法であると芹沢俊介さんは述べている。
「種山ケ原の夜」の構成も同様で主人公伊藤奎一(いとうけいいち)19歳が草刈りの諸先輩と真夜中に焚き火にあたっている場面から始まり会話しているうちに夢の中に入り林務官と話したり樹霊たちと話したり唄を歌ったり聴いたりする。最後に雷神に脅かされて目を覚まし元の野原で仕事に取り掛かる。
「種山ケ原の夜」を「銀河鉄道の夜」に置き換えるならば伊藤奎一はジョバンニになる。奎一の「奎」という字は中国占星術では二十八宿の一つ「とかきぼし」をあらわすので連想として銀河とも繋がる。《伊藤(起きて空を見る)「ああ霽れだ 霽れだ。天の川まるっきり廻ってしまったな。」》と台詞に。
「種山ケ原の夜」における野原は「銀河鉄道の夜」における「黒い丘」にあたります。《この「黒い丘」がジョバンニにとって幻想四次の空間への入り口、言い換えると、三次元空間と四次元空間との「境界」になっている》27頁と芹沢俊介さんは述べています。
さらに「種山ケ原の夜」における野原は「風の又三郎」においては転校生と村の子どもたちが仲良しになるきっかけとなる「上の野原」にあたります。そこで子どもらは馬を追いかけたりして遊びます。そこで嘉助が迷子になり気を失って幻の中で風の又三郎を目撃するという大切なシーンが描かれます。
芹沢俊介さんの「『春と修羅』における〈自然〉の構造」という論考を読んでいる。これは初出が雑誌「ユリイカ」1978年2月とのこと。賢治さんの詩の特徴である括弧や一字下げ二字下げなどの断層について突っ込んだ考察がなされている。流れを邪魔するように挟み込まれるこれらの処置をどう解釈するか?
例えば1922年1月6日スケッチの「屈折率」。
《陰気な郵便脚夫のやうに 急がなければならないのか》という詩句の間に二字下げて(またアラツディン 洋燈とり)という句を挿入する。
出版後この括弧の部分に縦線を入れさらに全体に斜線を付している。なぜこのような断層をもつ構成をとったのかについて芹沢俊介氏は《宮沢賢治は、自己の多層的な、本質的には二重の、内面の動きや表出の全部をできるだけ単純に表現しようとした》166頁からであると述べている。素直に書けば複雑になるという逆説。
《近代詩人の誰もが短歌ー文語詩ー口語自由詩の過程をつまり詩の全歴史を一身のうちにおそるべき勢いでとおりぬけてきた》166頁と芹沢俊介氏が云うように大正時代の言語的実験は我々の想像をはるかに超えた規模で遂行されている。その延長に宮沢賢治も立っているという観点は重要だ。
「若しこの夏アルプスへでも出かけるなら私は『ツァラトゥストラ』を忘れても『春と修羅』を携へることを必ず忘れはしないだらう」という辻潤のコラムが読売新聞に載ったのが1924年7月である。ダダイストにここまで云わしめるほど新鮮な息吹が賢治さんの実験には感じられたのだろう。辻潤がプロデュースした『ダダイスト新吉の詩』が世に出たのは大正12年の2月であるから『春と修羅』より一年早い。高橋新吉の詩の構成を見ればすでに二字下げ三字下げは当たり前に行っているから形の上では賢治さんに先行している。また萩原恭次郎・岡本潤・川崎長太郎・壺井繁治の四人が前衛的な詩誌『赤と黒』を創刊したのも大正12年であった。そこでは活字を縦にしたり横にしたり「・」「+」「ー」「=」などの記号を多用する試みが行われている。
《『赤と黒』の廃刊後、その同人が中心となって『ダム・ダム』が創刊されたのは1924年10月のことである》と壺井繁治は『現代詩の流域』(筑摩書房)85頁に記している。
創刊号で終わった『ダム・ダム』も100周年! わお!
『春と修羅』刊行の前年に前衛的なダダイズムの運動が展開されているとはいえ宮沢賢治の心象スケッチはそれらの運動と関わりのない地点から動き出しているということも考えておかなくてはならない。辻潤の評も形式的な面ではなく賢治さんの独特な感受性や土着性や野生的な面を鋭く捉えている。
ゆえに《賢治がとった形態上の断層的な表現は複雑な内面の動きのすべてを、単純に表現しようとして、結果として複合的で錯綜した表現形態にたどりついた》166頁という芹沢俊介氏の指摘は妥当であると思う。奇を衒うつもりが賢治さんにはない。
芹沢俊介さんの「詩のなかの『青』について」(『新修宮沢賢治全集』第二巻月報)を読んだ。賢治さんが「青(蒼)」に込めた意についての考察。たまたま朝日新聞2024年10月5日付に松本隆さんが《同じ「あお」でも「青」より「蒼」の方が色として深い感じがする》と書かれていてハッとした。
芹沢俊介さんは全集から青系統の言葉を抽出する作業をされている過程でご自分が「色彩音痴」であることに気がついて途中で作業を中断してしまったらしい。これはとても示唆的なエピソードである。賢治さんの共感覚について行こうとすると誰もがおいていかれる感覚になるのは確かである。
宮沢賢治の作品が読む側の弱点(あるいは苦手部分)を知るためのリトマス試験紙のような役割を果たしうることを芹沢俊介さんは教えてくれているようにわたくしには思える。
「恐怖考」という芹沢俊介さんの論考がまさにそれを証明している。こちらは雑誌「イマーゴ」(1994年3月)が初出である。この中で芹沢俊介さんはご自分が「高所恐怖症」であり「暗所恐怖症」であると述べられ宮沢賢治の童話が恐怖について考える上でのヒントに満ちていることを教えてくれている。そう思えば宮沢賢治の童話作品はどれも少し怖い話が混じっている気がする。登場人物が怖い思いをする場合もあれば読者が怖いと思う場合もある。子どもたちにあまり読まれない理由がもしかしたらそのへんにありはしないか。「恐怖考」の延長で思索を続けてみよう。
 

次に芹沢俊介『宮沢賢治の宇宙を歩く』と同じ1996年に出版された小森陽一『最新宮沢賢治講義』(朝日選書)を参照します。
1996年は賢治さん生誕100年の年でしたのでいろんな企画があった。小森陽一さんによる童話の読解。一つ目は「鹿踊りのはじまり」。
《嘉十は、しばらくの間湯治をするために、「糧と味噌と鍋とをしよつて」出かけたのですが、彼の持っている「糧」とは、「栃と粟とのだんご」です》18頁。
この食べ物に注目して小森陽一さんはある推測をします。
《嘉十の「糧」の中では、採集生活と農耕生活が拮抗しています。それは、農耕だけでは食糧をまかなうことができない、という嘉十の共同体が抱えている現実の表徴にほかなりません》19頁。嘉十が栗の木から落ちて怪我をしたのも農作物がうまく育たなかったためであると。
《山や森に棲み、木の実を食べて生きている他の動物たちの食物を人間が奪わざるをえなくなり、そうした動物たちと食物をめぐる競争の関係に入ってしまっていた》19頁。嘉十と鹿たちが出会った背景に飢餓があったという類推。
宮澤家のはじまりについて。堀尾青史『年譜宮澤賢治伝』(中公文庫)によれば《天和、元禄のころというから十七世紀のおわりに近いころ、京都から藤井将監という人が南部の花巻へきた。1696年(元禄九年)九月十一日に没している。この人が宮澤家の始祖といわれている》13頁。三百年後に賢治誕生。《花巻とは、アイヌ語のパナマッケ(川下の平地の意)、パラマキ(はなはだ広い原の意)から出たとか、北上川の愛宕下深淵に落花の渦を巻いていることから出たとの説がある》13頁。個人的にはパナマッケという説が好きです。
どの土地にも開墾者がいて入植者がいる。宮澤家はそのルーツがはっきりしている。おそらく幼い頃からそういう家柄であると云うことは幼い賢治にも伝えられていたにちがいない。「鹿踊りのはじまり」というお話の背後にそういう家のはじまりにまつわる苦労話が影響していることは確かだと思われる。
嘉十の一家は北上川の東から移ってきて畑を耕し粟や稗をつくって暮らしている。しかしそれだけでは足りないので栗なども採って食べている。「鹿踊りのはじまり」の冒頭で語られる嘉十たちの暮らしぶりから農耕と採集という生活様式が見え「栃と粟とのだんご」が象徴的な食べ物であることがわかる。
堀尾青史『年譜宮澤賢治伝』(中公文庫)の1902年賢治六歳の欄を見ると《この年、東北地方は冷害におそわれた。(中略)窮民は千葉がゆ、ナラの実で作ったもち、トコロ、ワラビ、山ゴボウ、アザミの葉などで命をつないだ》28頁とある。飢饉がいつ起こってもおかしくない時代を生きていた賢治さん。
『年譜宮澤賢治伝』の1905年賢治九歳の欄には《この秋も東北地方は記録的な冷害に見舞われた。(中略)べんとうをもたぬ子どもが多かった。農家の子は、ワラのフシのところをきざみ、洗ってウスでつく。するとわたのようにモヤモヤとなる。それを煮てモチのようにしたものをべんとうにした》30頁と。
小森陽一『最新宮沢賢治講義』に戻ります。
小森陽一さんは嘉十が一休みして栃と粟でこしらえた弁当を食べそれを「とちの実」くらいの分だけ残したという記述に注目する。人が加工したこの団子は「とちの実」という自然の恵みからできている。無意識に近い気づきで団子を鹿に差し出そうとする嘉十。
人間も動物も飢えている。そういう現実が背景にあるとしても賢治さんが紡ぐお話にはどこか明るさがあります。六道輪廻の苦しみを超えて衆生が二乗や菩薩や仏の境界に導かれる世界。その足がかりになるような物語を作れないだろうか。「鹿踊りのはじまり」の中にもその苦心の跡が見られる。
《「とちの実くらゐ」の「栃の団子」を鹿たちに分け与える際に、それをあたかも器の模様であるかのような「うめばちさうの白い花の下」に置いたあたりに、鹿たちに神聖ななにかを感じる傾きをもっていた嘉十の心があらわれています》22頁と小森陽一さんは指摘しています。
賢治さんが「みんなのほんとうのさいわい」という云う時の「みんな」は全人類のことを指していると思いがちであるがこの「みんな」は一切衆生である。全生命としての「みんな」である。人である嘉十が腹を減らすように鹿たちも腹が減る。自然の恵みを衆生同士で分かち合う。当たり前の事として。
嘉十が残した栃の団子に鹿たちが近づこうとすると嘉十が忘れた手拭が怖くて近寄れません。それで鹿が一匹ずつそれが何であるかを確認しに来ます。まず眼で見て形と色を。次に耳で息しているかを。そして鼻で触れて感触と匂いを。それから舌でぺろっと舐めてみる。五匹が五感を使って入念に。
そうして六匹目の鹿がとうとう手拭をくわえて持ってくる。それで鹿たちは大騒ぎ。歌って踊って跳ね上がる。この間嘉十は鹿たちの心の声を自分の土地の訛りのある言葉で聞いている。ここがこのお話の最大の魅力である。動物が人間の作ったもので大騒ぎしてそれを人間である嘉十が喜んで見守っている。
読売新聞2024年10月13日朝刊に淑徳大学の郷堀ヨゼフさんのお話が載っていた。《日常から死者を排除し、生命の枠組みを自分の誕生から死までに限定すると「自分さえ、今さえよければいい」という考えに傾きがちです》と。宮沢賢治の思想にまっすぐ繋がっている。
小森陽一さんの考察は「狼森と笊森、盗森」に移ります。
《「小さな野原」に入植してきた「百姓」たちは、「大きな刀」をさしています。明らかに彼らは、鉄器文明の申し子なのです。この「大きな刀」と等価なものとして、「山刀や三本鍬や唐鍬」が位置づけられています》41頁。宮沢賢治には刀も農具も同じ鉄器であり武器であるという認識があると小森陽一さんは云う。
《つまり人間の側は、農具と名づけることで、実は、その鉄で造られた道具によって、自然を傷つけ、殺害しているという事実を隠蔽しているのです》42頁。
《農業は一方では人間と自然が共存することではありますが、他方では自然を人間が造り替え、もはや自然ならぬ自然にしてしまうこと、人間にとって必要な自然だけを残し、あとは大量殺戮していくことでもある》43頁。賢治さんはそれをきちんと見抜いていた人であると。
『銃・病原菌・鉄』で西洋人がアメリカ先住民を征服できた理由が考察されているように宮沢賢治は童話の中で「刀・病原菌・鉄」で入植者が自然を征服していく過程を描いていると云ったら大袈裟だろうか。いずれにしても征服者にとって鉄は重要なアイテムだ。
《おりしも『注文の多い料理店』に収められた作品群が書き継がれていた大正10(1921)年には、第一次世界大戦後の不況と失業者の増大を主要な要因としながら、アメリカで日本人移民排斥論が最高潮に達していた年でした》47頁と小森陽一さんは書いている。
《1920年代の世界的な危機意識をめぐる起源の問題が、この物語の農耕起源譚で問われているのです。移民の起源はまた、先住者や自然に対する侵略と戦争の起源でもあることを、忘れてはなりません》47頁。加害に対する異常に敏感な意識を賢治さんは持っている。
童話「狼森と笊森、盗森」では最初の事件として九人いる子どものうち小さい四人がいなくなってしまうということが起こります。大人たちは森へ探しに行きます。そこは狼たちの棲む「狼森」(オイノもり)です。狼が家畜化されて犬になるという古い歴史が思い返される。人間と狼との関係は興味深い。
《オオカミは、ユーラシア大陸と北米で飼育化されて今日の犬の祖先となり、猟犬や番犬、そしてペットとして、ところによっては食用として飼育されてきた》とジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』の第9章の中で書いている。家畜化できる動物とできない動物がいるという不思議。
《家畜化によって動物にどのような変化が起こったかは、犬の祖先であるオオカミと飼い犬をくらべてみると理解しやすい。飼育種には、グレートデンのようにオオカミよりも体の大きい犬もいれば、ペキニーズのようにずっと小さい犬もいる》とジャレド・ダイアモンド。狼をプードルに変える人間の力。
《いろいろな地域で独自に家畜化されたということでいえば、オオカミもまたそうである。彼らは、南北アメリカ大陸で飼育化され、犬の祖先となったが、中国や西南アジアをはじめとするユーラシア大陸の複数の地域でも独自に飼育化されている》とジャレド・ダイアモンド。世界あちこち同時に狼は犬に。
「狼と七匹の子山羊」「赤ずきん」「三匹の子豚」などの童話の中のオオカミ。狼人間や狼男などの神話や伝説。オオカミの語源が「大神」であるという日本の伝承。世界各地でオオカミは人間と深い関わり合いを持っている。「狼少年ケン」「もののけ姫」も。童話「狼森と笊森、盗森」における狼はこれまでの童話に登場したオオカミとは一味違います。小さな四人の子どもらのために焚き火をして栗や初茸をご馳走していたのです。この狼と人間との関係はどこか神話の延長であるような関係です。百姓たちは返礼として後日粟餅をこしらえて森に届けます。
小森陽一さんはここでも「粟餅」の粟に注目します。実はこの秋の収穫は蕎麦と稗であったことが書かれています。粟ができたのは次の年からです。なのでここで出した粟餅は百姓たちにとってみればとっておきの種用から作ったものだと考えられる。
《人間たちは、いま自分たちが所持しているものの中で、命の次に大切なものを、狼たちへの返礼として差し出したことになります》53頁と小森陽一さん。子どもたちの命を守ってくれた事への最大の感謝を粟餅で表現している。
童話「狼森と笊森、盗森」では第二の事件として農具がなくなってしまうということが起こります。前年にくらべ子どもが増え馬を導入し畑も広がった百姓たちにとってこれは大きな痛手です。それで森に探しに行くと山男がいたずらして笊の下に農具を隠していました。そこが笊森と呼ばれている森です。
小森陽一さんは山男が持つ「笊」と百姓たちの「農具」を対比させ笊は木の枝で編まれているのに対して農具は鉄器であることに注意を向けている。さらに民俗学の知見から非定住の異人と農耕定住の常民をそこに重ねています。
小森陽一さんに云わせると編む文化は自然との共同作業であるが鉄器を使用する農耕は人間が支配者になる文化である。
《火と鉄の文明は、人間の力の下に自然をねじふせ服従させるものです。その力によって、人間は、あたかも自然を自らの思うがままに操れるかのような幻想を持つ》63頁。
人間たちが傲慢にならないように鉄器である農具がなくなる事件が起こったとみなす小森陽一さんの読みはとても面白い。そしてそれが山男のいたずらであったということから文明論にまで話が広がるという点も。百姓たちはそれを機に笊森にも粟餅を届けるようになる。
童話「狼森と笊森、盗森」の第三の事件はたくさん収穫できた粟が全部なくなってしまうというものです。百姓たちは畑を大きくし馬も三頭になり三家族が食べるに困らないだけでなく大きな蓄えもできた矢先の事件です。これを小森陽一さんは私有財産の発生ととらえます。
「盗み」が存在するためには「私有」がなければならない。「私有」のない世界では「盗み」を働くことができない。この当たり前のことに人はなかなか気づけない。百姓たちの生活の変化と共に事件の質も変化していく。童話「狼森と笊森、盗森」がたった三年の出来事で人類史をなぞっているとしたら。
粟を探しに百姓たちは狼森と笊森と黒坂森へと順番に訪ねます。そして黒坂森の証言に従って盗森で手の長い大きな大きな男に尋ねますが逆ギレされる。百姓たちは引き下がる。しかし一部始終を見ていた岩手山が裁いてくれたので粟は全部戻って来ます。そこに法と権力の起源を小森陽一さんは見ている。
たかが童話だと思えばそれまでですが小森陽一さんのように複雑な事が書かれていると深く読むこともできるから不思議です。マルクスの『資本論』を踏まえて読めばさらに深く読めるかもしれません。しかし童話だからこそ威力があるとも感じます。
《この「百姓」たちと「盗森」の場合には、絶対的な高みから、すべてを見ていたと思われる岩手山が裁きをつけますから、一件落着するのですが、それを人間社会の内部で行うためには、権力者という別格の人間をつくり出さねばならなくなるのです》73頁と小森陽一さん。
 

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