2015年の作文・6月
6月6日
◇「宮沢賢治研究会」第281回例会に参加して
2015年6月6日午後6時千駄ヶ谷区民会館で開催された「宮沢賢治研究会」6月第281回例会に参加した。
前半の講師は、京都造形芸術大学名誉教授の中路正恒氏。演題は「宮沢賢治のポトラッチ──「祭の晩」から考える」である。「祭の晩」の主人公亮二は、窮地にあった山男を助ける。その返礼として山男が届けた薪と栗を見て、こんなに貰うわけにはいかないとおじいさんが着物や団子を山へ持っていってやろうと提案する。亮二は《着物や団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまわって、それからからだが天に飛んでしまうくらいいいものをやりたいなあ》と叫ぶ。素直に読めば、すごくいい話なのだ。素朴で純粋で、心が広く大きくなる話なのだ。中路さんは、そこにポトラッチの典型を読む。宮沢賢治にはしばしば、こうした「限度を超えてしまう」問題が見られると云う。ただし、中路さんが使用する「ポトラッチ」というキーワードは、「競争的なタイプの全体的給付」と呼ぶことができるものに限定される。分かりやすく云えば、「気前よさ」の競争。どちらが多く与えることができるかを勝負すること。結果的に無一文になる。中路さんの話では、それがエスカレートすると戦争にまで発展するとのこと。この話を聞いて、私はドキッとした。じぶんが今まで宮沢賢治の美徳であると思っていた優しさや心の広さが、ある観点からはとても危ないものなのだということに今まで気がつかなかったからである。おそらく「祭の晩」という童話が持つ一番倫理的な部分である亮二の「与える精神」を、これまでの読者は微笑ましく眺めてきたし、それを多くの人たちと共有したいと願ってきたであろう。私はそこでいくつかの仏教説話を思い返す。例えば、鳩を助けるために自分の肉を鷹に与えた尸毘王(しびおう)。半偈を聞くために鬼神に身を捧げた雪山童子(せっせんどうじ)。身代わりにじぶんが生贄になろうとする鹿野苑の鹿の王など。「与える精神」は仏道修行者にとって基本の徳目である。中路さんはそこにメスを入れる。与えることの悦びが一種の陶酔になっているのではないか。私はそこで、「春と修羅」の中の《このからだそらのみぢんにちらばれ》を想起した。確かに「あやうい」かもしれない。中路さんは、「銀河鉄道の夜」のさそりの話についても、否定的な観点を提示する。《どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次はまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい》とのさそりの願い。その「みんな」が「だれか」なら理解できるが、「みんな」では抽象的だと云う。さらに、《ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない》というジョバンニのセリフ。百ぺん灼けるような体をもっているなら意味がないのではないか、人生の一回性を無視していると云う。こうして、前半の講義は70分ほどで終わり、質疑応答に移った。ハレーションが起こった。質問者三名、それぞれに異議を申し立てる。宮沢賢治のポトラッチは成り立たないし、そういう読み方では賢治の童話を理解できないという反論。質問者と中路さんのあいだで「ポトラッチ」の定義に相違があったため、議論はかみ合わない。亮二はもっと純粋な気持だった筈で、全体的給付を競争しようなどと考えていたのではないという反論。問題はそこではなく、限度を超えてしまう陶酔感にあることを再度指摘するも、質問者は納得せず。中路さんに「スピリチャルの考え方がないのではないか」と異議を唱えた人も出たが時間切れで終了となる。
後半の講師は入沢康夫さん。7時40分から8時30分くらいまで、カラープリントの資料に基づいて「セロ弾きのゴーシュ 原稿解読の思い出」という演題で、お話される。この講義を直接聴く機会に恵まれた事は真にありがたいことであった。
テキストとの向き合い方
この例会で私が学んだことはふたつ。第一に「読書は、信じて読むか疑って読むかで全く違った結果が得られる」ということ。第二に、テキストとの向き合い方が異なる者同士が同じテーブルにつくとハレーションが起こるということ。学者は、疑って読む側の代表である。テキストのどこに問題が潜んでいるか、サーチライトをあてながら丹念に調査し、検証する。この知的営みに共感する者は、どんなに議論が煩瑣になっても、興味を失うことはない。ところが、信じて読む読者にとって、それは教義の逸脱であり、冒涜となる。そんな風に疑わずに素直に読みなさいと説得したくなる。このことは宮沢賢治に限らず、聖書や仏典、マルクスやニーチェの著作、その他あらゆる書物にも当てはまるだろう。信じて読むことの功徳。疑って読むことの利益。そして、どちらの側にも愛がある。
6月7日
◇人間と人形
腹話術で使用する人形は人間に似ているけれども
腹話術の人形によく似た人を時々見かけるよね
6月8日
◇梅の木
梅の木から梅の実がぽとりぽとり
おまけに毛虫もぽとり
影色の雲の背後から真っ赤に光る東の空
ナチュラリンの入った青信号
センチメンタリン配合の赤信号
BANANAを齧ってからパインを口に入れ梅酒で流し込む
6月9日
◇アンチケンジ
宮沢賢治に関して否定的な見解を示す人の言葉に少し耳を傾けておこうと思う。
『現代詩手帖』1996年11月号は、宮沢賢治を特集している。その中に「注文のない世界」というタイトルの荒川洋治氏の一文がある。
《どうして興味がもてないのか。宮沢賢治は世界観で書いているからである。ぼくなどはやわなので、ぶらぶらしたいために書く。だから世界観というものそのものが正直いって理解できないのだ。》
云われてみなければ気がつかなかった。そうか、私はこの「世界観」にやられちまったくちなのか。法華経(または大乗仏教)の信仰をベースにした賢治の言葉は、童話にしても詩にしても、どうしても遠くの方で鳴り響いているように感じられてしまうのだろう。
同じく『現代詩手帖』96年11月号の「魔の遺産」という一文の中で、粕谷栄市氏が書いている。
《不思議に透明な光にみちた時空感覚と、人間の現実から隔てを持つ無人の自然への偏向。そこに生きて存在することが赦されるのは、動物とまだジブンを持たない少年少女たちだけである。》
賢治の読者は、ファンタジーの世界で遊びたいと願っている。だから、賢治の言葉の使い方や世界観を喜んで受け入れることができる。これはオタクの嗜好に適っている。私たちはここ30年の間、オタクを正当化する時代を作ってきた。だから宮沢賢治は読み続けられている。アニメの世界、ジブリの世界、ディズニーの世界、ハリウッド映画の世界など、「動物とジブンを持たない少年少女たち」が活躍する舞台はたくさん用意されている。
《戦争よりもつらいものがあった、もっと本質的なものがあった、あるいはそれをのみこんでいたとみるのが宮沢賢治を愛する人たちの意見かと思うが、世間にかすりもしない世界観はそこまで堅牢なものだろうか。むしろ「気持ちわるい」というのが、物質を堪能する現代人の、正直な感覚なのではなかろうか。自分をごまかしてはならない》と荒川洋治氏は書く。
《宮沢賢治。それにしても、今日、私たちは、容易に、彼と彼の文学について語ることはできる。だが、誰もが、決して、彼のように生きようとはしないのである》と粕谷栄市氏は書く。
耳が痛い。「銀河鉄道の夜」を読んで社会を変革しようと思う者はいないだろう。『春と修羅』は革命の書にはなり得ないだろう。私たちは宮沢賢治が好きだ。否、それは本当か? 宮沢賢治の名を借りて、自分を正当化したかったのではないか。反省してみる必要がある。
宮沢賢治を信奉する人々は、こうした否定的見解を見事に折伏してみせなくてはならない。少し準備が必要だ。1996年と云えば、オウム真理教による地下鉄サリン事件の起こった1995年の翌年である。そういう時代背景であったことも考慮しなければならないが、荒川洋治氏は、それよりもずっと前から手厳しく批判の矢を放っている。
6月14日
◇アンチケンジ2
大澤真幸氏は『現代詩手帖』96年11月号「ブルカニロ博士の消滅」に書いている。
《ここで注目しておきたいことは、昭和初期のファシストたちのことである。賢治は早くして亡くなっているので、その頂点を見ることも、またその悲劇的な結末である世界大戦に立ち会うこともなかったが、まぎれもなく、昭和初期のファシズムへの高揚期を生きている。昭和維新期のファシズムに唐突に言及したのは、当時の先鋭なファシストの多くが、賢治と同様に法華経に帰依する大乗仏教徒であったり、あるいは少なくともそのシンパであったからだ》
賢治が法華経を学んだ団体は「国柱会」である。「国柱会」の創始者は田中智学。この男が曲者だ。釈迦本仏を立てたり、佐渡始顕の本尊を根本とするとしたり、その時々に教義がぶれてゆく。そして天皇崇拝と排他的民族主義を掲げ、軍部の指導者たちに影響を与えた。
賢治は上京して国柱会に出入りしながら真面目に田中智学の教えに学び、そして童話を書きまくった。そこで構想された作品群は、法華経の精神を現代に翻訳するとどうなるかの実験でもあった。このような矮小化された日蓮仏法から学ばなければならなかったところに、宮沢賢治の宗教的限界がある。したがって、次のような大澤氏の問いを私たちも改めて問わねばならないだろう。
《賢治の思想の内にも、ファシズムへと連なるような危険な萌芽が孕まれていたと見るべきなのか? そこには、ファシズムと踵を接する要素が含まれていたのか? それとも逆に、賢治の思想の内には、ファシズムを回避し、あるいは超克しうるような配備が、はじめから──つまりファシズムの頂点を待たずして──準備されていたのだろうか?》
6月16日
◇アンチケンジ3
押野武志『童貞としての宮沢賢治』を読んだ。2003年に出版された、ちくま新書の一冊である。タイトルからだいたいの事が想像でき、ずっと読まずにいた本である。宮沢賢治に関する否定的な見解を調べようと思わなければ、ずっと手にとらなかったかも知れない。
押野氏は、この中で賢治とナショナリズムの関係についても詳細に検討している。
《それでは、賢治の日蓮主義とはどのようなものであったのか。もちろん日蓮主義といっても、一枚岩ではない。北一輝、井上日召のように国家改造運動に向かう流れもあれば、妹尾義郎のような仏教社会主義者も生んでいる。さまざまな日蓮系の新宗教運動の流れもある。木下尚江のようにクリスチャンでありながら、独自の「日蓮論」を展開していった思想家もいるのだが、大きな共通項は括り出せるだろう。/彼らの日蓮主義は、近代天皇制国家を前提とした日本国体論と不可分の関係にあり、天皇と日蓮仏教の政教両面の統一を目指し、そうしたあるべき日本と現実の日本との溝を認識して、その溝を埋めるべく実践が求められた。溝を埋めるというよりも、現実の諸々の矛盾を括弧に入れようとしたと言ったほうがいいかもしれない》
このあと押野氏は、国柱会が構想した「本時郷団=法華村」、階級矛盾を超越した理想社会を目指した石原莞爾の「満州国」と並べて その具体例の一つとして賢治の「羅須地人協会」を挙げている。
さらに興味深いことは、第七章で、賢治の贈与論についても言及している。
6月20日
◇アンチケンジ4
山口泉『宮澤賢治伝説─ガス室のなかの「希望」へ』を読む。2004年8月、河出書房新社から出版された本だ。驚いた。ここまであからさまに賢治を批判している本を読んだことがなかったので、はじめは受け入れ難かったが、読みすすめていくうちに、執拗に宮澤賢治の作品を批判する作者のこだわりが見えてきて、次第に面白くなってきた。賢治を崇拝する人には耐えられないかも知れない。また、まだ賢治作品に触れていない人は、読まないほうがいい。はじめから童話を疑って読む意味など全くないからだ。この本は私に大きな宿題を与えてくれた。山口泉氏の批判を逐一検討し反論できるようになれば、それだけじぶんに力がつくにちがいない。知的好奇心の旺盛な賢治の愛読者なら、是非一度読んでみてほしい。
序言は次のようにはじまる。
《宮澤賢治に対する私の批判を集約すると、それは彼の作品と思想とが、人間から歴史性や社会性を抹消しているということに向かうと思う。そうした人間の非歴史化・非社会化の操作によって、逆に、通常は得難い(かに思われる)きらびやかな“作品的成功”を達成しつつ、同時に現実の世界における個個人の苦しみや怒り、そしてありうるかもしれない闘いのいっさいを無限の未来にまでわたって踏みにじり、周到に圧殺している──という点に尽きる。》
ここまで言われて黙っている賢治ファンはいない。この挑発的な序言は著者の作戦のひとつであろうけれど、おそらく賢治の弱点をうまく言い当ててもいる。
《宮澤賢治とその作品の主要なものは、つねに人間の前に立ちはだかり、一方で「現実」の実相へと向かうべき扉を閉ざしては、もう一方で、ありもしない「死後」や無批判な「万象同帰」の次元や概念を仮設する。そうすることで、人が人として生まれた(生まれてきた、ではない)、このただ一度しかない生の意味を隠蔽し、変質させ、腐蝕し、誤信せしめ、人の生き方を誤らせる危うさに充ち満ちている。器の縁いっぱいに湛えられ、かろうじて表面張力を保っている液体のように。あるいは、すでに溢れ出し、周囲を汚して染み込んだ液体のように──。》(39頁)
ここで分かること。山口泉氏の思想は、「前世も来世もない」、「そこに触れる宗教的言説を許さない」、「そういう形而上学のもとに作られたファンタジーも認めない」ということである。賢治ファンは云うかも知れない。そういうあなたが一人の作家として第一回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞しているのは手の込んだアイロニーか。そう、これも戦略の一つなのだろう。山口泉氏の論旨は一貫している。「現実から目を逸らすな」と云いたいのだ。そして、それは宮澤賢治の思想のなかに入り込んでいる「浄土真宗」の痕跡を図らずも炙り出して見せてくれているように私には思われる。
(ちなみに、山之口貘(本名、山口重三郎)の娘は、山口泉さんである。だから泉さんは混同しないように筆名を山之口泉としている。)
6月21日
◇解毒のための読書
今月は、「宮沢賢治を疑う」をテーマにずっと本を読んできた。ある程度だが、私なりに相対化できたように思う。で、少し解毒剤が欲しくなって、入沢康夫さんの本を読む。「詩と体験」という話から引用する。
《現実の生活、そしてその中での私たちの体験、それは私たちが詩を書き、詩を読む場合の、重要不可欠な手がかりであり、ささえであり、手だてではありますけれども、詩の目的ではない。現実の体験が詩を手段として伝達されるのではなく、むしろ逆に、詩が現実の体験を手段として(足場として)成り立つのだ。まあこんなふうに、私には思われます。一見、常識とは全く反対のようなこの考え方が、果してどこまで主張できることかについて、私は私なりに十年このかた詩を読み、詩を書くことを通して、点検しつづけてきましたが、この考え方の妥当性についての確信は強まりこそすれ、弱まってはいません。》(296頁)
この話は1979年10月の『現代詩読本』11に掲載されているので、今から36年も前になるが、入沢さんの考えは今日までずっと変わらずにおられるわけだ。この視点を失わないかぎり、私たちは宮沢賢治の作品を安心して読むことができる。
言葉が現実を表現していないと気がすまない人には、このことを理解するのは難しい。私の妻がそうだ。私が詩を書くと、「それ、あたしのことでしょ」とか「子どもたちの話ね」とか、すぐに日常の出来事に即して解釈しようとする。「現実は材料を提供しているだけで、これは詩なのですよ」と云っても、全然分かろうとしない。
詩が作品として成立する事態を表現する場合、私が詩を書いているというより、詩が私を使って出てくると云った方が当っている。これは詩を書き続けていれば、誰もが実感することだ。私たちにできることはそのための準備だけである。ボキャブラリーを増やすために、専門用語や外国語を学んだり、普遍妥当する言い回しを覚えたりしながら、歴史をふまえ、流行を敏感に感じ、そして書く意志を持ち続けること。そうした条件が整ったところに、言葉は(不意に?)訪れる。そこではじめて、人が「ひらめき」と呼んだり、「啓示」と云ったりする出来事が起こる。私の場合、ある一言から竹を割るように全文がスパンと滑り落ちてくる感じで、詩ができることが多い。
《私自身、実体験と全く縁のないところで詩を書いているように見られたり、解説されたりしていますが、これは私としてはいささか心外なことであるのは、以上のような考え方を知って下さるならば、多少とも判っていただけるでしょう。たしかに、私の作品の表面には、人生上のもろもろの体験は、「いかにもそれらしい形」では書き込まれていません。しかし、「口実」「きっかけ」「ささえ」その他いろんな意味で、またいろんな水準で、むしろ、かなりの「猛威」をふるっているとさえ言えるのです。》(309頁)
入沢康夫さんは、宮沢賢治の心象スケッチとその推敲について話をされたあと、このように話を締め括っている。
引用文献:入沢康夫『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』筑摩書房
6月27日
◇右と左
「右」
と云ったら
「左でない」
と云ったことになる
右はいつも左を連れて来る
「上」
と云ったら
「下でない」
と云ったことになる
「前」
と云ったら
「後」
と云ったら
「これ」
と云ったら
「あれ」
と云ったら
「君」
と云ったら
「僕」
と云ったら
こうして世界を分節するのが言葉であることが分かっているのだから
物語は必然的に差別の世界を構成する
そして物語の中でいちばん差別されるのが主人公
世界から切り離されて悲劇や喜劇の運命を背負わされる
彼はいったいどこへ帰還すればよいのだろう
言葉なき世界へ帰してやりなさい
「赤」
と云ったら
「青でない」
「白でない」
「紫でない」
「黄でない」
「茶でない」
「黒でない」
「緑でない」
「桃でない」
「その他のどの色でもない」
と云ったことになる
一語はいつも無限を連れて来る
「右翼」
「左翼」
羽ばたけ
羽ばたけ
6月28日
◇新編山之口貘全集第1巻詩篇
ついについに買つたのである
なけなしのこずかいをはたいて買つたのである
山之口貘全集第1巻
2013年9月11日に発行されていた新編である
それをぼくは
2015年6月27日の土曜日の午前10時に
新宿の紀伊国屋へ駆け込んで買つたのである
なんとこの全集には
付録として貘さんの朗読CDがついているのである
女房はそれをみてあろうことかまた無駄遣いなどとつぶやいたのだ
しかたがないのでぼくはしょぼくれて
本棚にある蔵書の一部を現金に換えるため
近所の古本屋へ行つたのである
6月29日
◇『エクソダス症候群』を読む
ぼくの周りにはなぜか、うつ病の人、統合失調症の人、PTSDの人などが多くいて、高校時代から自然と「精神医学」に興味をもつようになった。重度のうつ病を患っていた親友は24歳の時に亡くなった。隔離病棟へも統合失調症の後輩を見舞うために何度も足を運んだ。摂食障害で死に掛けた友人もいる。ぼくは彼らを病者としてみたことはない。いつも気の合う友人として接してきた。だから時々、病院内(彼らの心の世界)と社会(外の世界)が逆転して見えることがある。バスに乗って、電車に乗って、帰宅する途中で、この世界はひとつの大きな精神病院なのではないかと思ったりする。
精神医学の本もどれほど読んだだろう。一時期、図書館から手当たり次第借りて読んだこともあった。それらを読んでいて、心の病と宗教には深い関係があることが分かった。それでぼくは宗教の本を読むようになった。特にキリスト教関連の本を。
『エクソダス症候群』は火星が舞台だ。主人公カズキは、地球から火星に赴任する精神科医。通読して驚くのは、これだけの精神医学に関する知識を得るのにどれほど時間がかかっただろうということ。著者の努力ははんぱない。それだけに知的満足度は200%。そして、火星という舞台にも関わらず、その話の展開に無理がないので、すっと入り込める。近未来の話としてではなく、今日的な問題として捉えながらぼくは読むことができた。
いま地球で起こっている様々な事件やじぶんや友人たちの心の中で起こっている問題をより深く考えるためにも、「火星から地球を診る」という眼は必要だろうと思う。病院内と社会を逆転させてみるように。
ぼくは、この本をじぶんの子どもたちにも読ませたい。
おすすめ図書 : 宮内悠介『エクソダス症候群』東京創元社
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